来年への備忘録

やりはじめたいこと、やりおえること、やれるようになっていること

思いつくままに。to doとmilestone。

・本・書類などの断捨離、スペース作り
・防災GOODS・備蓄品の整備、保管場所の整備
・トレ―ニングスケジュールの完全定着
・腹八分目、週二日休肝、5kgダイエット
・pen-drawing練習帳完了
・スケッチ習慣化のためのアクション
・ファミリー・イベントの記録(年表)づくり
・心理学基礎レビュー:ヒルガード、基礎→応用、用語集
・臨床心理・カウンセリングレビュー:コーチン、ワークブック、技法:理論、第3世代CBT
・キャリア:シニアケース・レビュー(ポイント別アプローチ、リカバリー要因)
・英語:リスニング、recitationの習慣化
・韓国語:開始
・トルストイ『戦争と平和』を読む
・中国史、朝鮮史、アメリカ合衆国史、昭和史レビュー
・経済学、経営学教科書読了
・riding習慣
・電動アシスト自転車購入→都内公園サイクリング開始
・昼飯レパートリー2点追加


めざせ golden 70’s !

共感ということ、だろうか

軍事の時代か

今年ももうすぐ終わる。
2月のロシアによるウクライナへの軍事侵攻。
これで頭をぶん殴られたように今年が始まった。動揺した。こんな戦争がこの時代に起きるのか。いてもたってもいられない気持ちになった。何かしないとと苛立った。ただの一市民でしかないのに。でも同じように思った人も多かったんじゃないかと思う。

侵攻の一週間後、ロシア大使館に抗議の手紙を送った。匿名で。ロシア、いやクレムリンは怖いと思った。足がつかないように、などと思いながら投函した。
ウクライナを侵略して占領・所有しようなどと考えているのはプーチンだけだと思っていた。怒りにかられた。ただの一市民でしかないのに。自分だけの勝手な妄想やイデオロギーでプーチンが始めた戦争で、プーチンがいなくなれば戦争は終わると浅はかにも思った。

to Russian Ambassador and Russian People

I don’t believe Russian People as a nation want to invade and rule Ukraine.
Only Putin wants to do so.
If Putin disappear, this war or tragedy will soon be over.
Your country will be more peaceful and flourished.
Russian troops,
point your gun at Putin, not at Ukraine.

a Japanese citizen

その後、ロシアでのプーチンの支持率が8割を超えていると知って愕然とした。
情報統制下の社会だからか。かつての軍事国家日本と同じなのか。しかし、日本人もその軍事国家を自ら生み出し支えた。ロシアのことはほとんど何も知らない。その風土も、歴史も、人々の精神世界も。内部から変化することはあるのだろうか。あるとしたらどんな状況で、どんな思想でか。

どんな背景があるにしろ、軍事的な力で他国を奪うということは許されないと思う。しかし、背景を正しく理解して適切な手を国際社会が打たなければ同じようなことが繰り返される気がする。あちこちで繰り返される気がする。そして、そのうちに絶対だと思っていた価値観がしだいに相対化されはしないか、そんな恐れも感じる。
相手を知らなければ適切な対処はできないと思う。しかし、相手を知ることは自分の基準を相対化することにつながる。そのときにそれでも保持される共通の基準はあるのか、生まれるのか。すべてが相対化されたとしたら、その世界を統べるものは暴力的な力ということになりはしないか。

北朝鮮や中国の動きを念頭に日本も軍事力(名前は防衛力だが)強化に動く。軍備拡張競争が軍事的、外交的対立を先鋭化させるとわかっていても、止められない。日本の反撃能力確保に反対する気持ちにはなれなくなっている。大きな不気味な歯車がギシギシと回り始めた気がするが、身動きとれない。そんな自分に戸惑う。
結局、ウクライナについてもUNHCRやAARへの寄付、ウクライナ支援のイベント参加といったことしかできないでいる。

ひとごとじゃない、という気持ち

私は「戦争を知らない子供たち」の一人だ。しかし、生きているうちに自分の目の前で戦争を見るかもしれない、その場にいるかもしれないという気持ちがどこかにある。自分の子どもが戦争に巻き込まれることへの恐怖心がゼロではない。ひとごとではない、という気持ちになる。

これは戦争だけについてではない。災害や事故、事件の当事者になることがひとごとではない気持ちがある。こんな気持になったのは東日本大震災のときからだ。
阪神淡路大震災のときは会社の中で社員の被災を心配したり、対応に動くということはあったが、それは支援するという気持ちで、自分がそこにいても不思議ではないという気持ちではなかったと思う。その後の災害についても同じ感覚だった。ところが東日本大震災は違った。本当にひとごとじゃないと、いつ自分がその立場になってもおかしくないと、頭というより身体でそう思った。初めてボランティアに行った。コロナが落ち着いたら福島から岩手まで海岸沿いに訪ねてみたいとも思っている。

この気持は辛い気持ちだけれども、自分が救われる気持ちでもあるかもしれない。共感ということだろうか。





(死ぬまでは)健康に生きる〜トレーニングとお金まわり

飲酒が癌の発症リスクや死亡リスクを高めることはデータではっきりと示されてしまったようだ。飲めば飲むほど癌になりやすく、死に近づくということだ。個人差はあるだろうが統計データではそうなる。飲酒量が少なければリスクもすごく高いということではなさそうだが、私はその枠には入らないだろう、残念ながら。
では、酒をやめるか!?・・・いや、それはない。浴びるほど飲み続けて早死したいわけではない。癌になって仮にドクターストップがかかったらやめるかもしれない。しかし、健康でいるうちは酒を楽しみたい。食事を、人生をエンジョイするのに自分には必要だから。

トレーニング

ではどうやって健康状態を少しでも維持するか。食事、睡眠、運動、いろいろあるが、10年ほど前から気をつけているのは基本的なからだの構造のことだ。
50代にさしかかったころ、健康に生き続けるには動き続けられないといけないと思った。人間は動物。動物というくらいだから動くのが前提。動けなくなると弱くなる。そう思って自分のからだを見てみると、きゃしゃというか、やや貧弱だと思った。動き続けるためにまずは筋肉・筋力をつけようとスポーツジムに通いはじめた。やがて加圧トレーニングなるものに出会った。さらに、初動負荷トレーニングというイチローや山本昌らで有名なトレーニング方法の本を読み、そのトレーニング器具をそなえたジムにも行くようになった。
加圧トレーニングは短時間のトレーニングで筋肉がつく。時間が短いから通いやすく、継続することができた。筋肉は徐々についてきた。一方、からだの固さも前から気になっていた。昔から首、肩、腰のコリがひどい。筋肉も柔軟な方がいいし、からだのバランスも大事だ。そう思って調べているうちに初動負荷トレーニングに出会った。このトレーニングも効果があったが、一番は自分のからだの動きやつくりに関心が向いたことだった。

健康コストと生命保険

さて、トレーニングはいいが問題はジムにかかるお金だった。
加圧はパーソナルでそこそこかかる。複数のジムに行くからなおさらお金がかさむ。サラリーマンも辞めていたので固定費は下げておきたい。健康のための費用は必要なお金だと思うし、はてどうしたものか。するとはたと気づいた。生命保険(医療保険)も見ようによっては健康関連コストだ。健康なら医療保険の必要度も下がる。たいがいの治療は健康保険がきくし、日本には高額療養費制度もある。入院期間ももっと短くなるかもしれない。そう考えて医療保険をやめた。ちなみにいわゆる生命保険(死亡保険)は終身のものに入っていて保険料の支払いは終わっている。
医療保険はもう少し歳をとったら再考しようかと思っている。高齢化がさらに進めば加入できる年齢もあがるだろう。保険料は高くなるだろうが、加入期間が短ければ総額は抑えられる。加入できるとして問題は自分のからだの状況を見てどのタイミングで加入するかだ。それが見極められるか。はたまた遅きに失するか(笑)。まあ、それも人生のスリルだ。

トレーニングにかかる費用もその後見直した。
トレーニングを何年か続けるうちに、ジムでトレーニングをする感覚がからだに馴染んできた。筋肉もそこそこついた。別にマッチョになりたいわけではない。特別なにかのスポーツをやりたいわけでもない。自分のからだや体型に適した筋肉がつき、からだを支え、不自由なく動かせればいい。
加圧トレーニングは月に4回通っていた。3万円近かった。初動負荷トレーニングのジムも月に1万円以上かかっていた。どうしたものか。ついた筋肉量と筋力や柔軟性を維持するにはこうしたジムに通い続けなくてもいいのじゃないか。いろいろ試しながら、今はパーソナルなジムに月2回、筋トレもあるが、からだのコンディショニングで動きを整えたり、自分でトレーニングやストレッチをするときのポイントを学んだりしている。そこに行かない週は自治体の健康センターで1〜2日自分で筋トレをしたり健康エクササイズに参加したりしている。こちらは1日400円である。費用は3分の1程度になった。
通い慣れたジムを辞めるのは少し抵抗があった。トレーナーとの関係もあるし、その場所に定期的に通うことが生活のリズムになっていたからだ。それを崩すことへの抵抗感や、違うリズムを自分で維持できるかという心配があったように思う。しかし、いろいろ試すうちに新しいスタイルができて生活のリズムになってきた。変化をつけるとはこういうことかなと思ったりもする。

次の健康施策

来年は次の健康施策にトライしたいと思っている。
電動アシスト自転車を購入して、都内のいろいろなスポットに行ってみることだ。電動アシストでなくスポーツタイプの自転車のほうが体力の維持・強化にはいいかもしれないが、10キロ、20キロを移動するとなると続けられるかどうかやや心配がある。坂も多いだろうし。今のところ電動アシストにして、坂以外はアシストなしで漕いだらいいのではと想像している。
都内のあちこちを回って路を覚えたい。そして、行く先々でこれはと思う風景を見つけてスケッチもしてみたい。自転車でのスケッチ行だ。広重ばりの江戸百景をめざそうか(笑)。

(死ぬまでは)健康に生きる~癌のこと

父親の癌

今から29年前のある日、会社の内線電話が鳴り、私宛に故郷の市民病院からと交換手がつないでくれた。突然の電話で驚いた。私も面識のある、父親の知り合いの副院長だった。副院長は早口で「お父さんが食道癌で入院された。お母さんには癌のことは言ってない、あんたに伝えときます」と言った。頭が真っ白になった。その時電話で何を話したか、その先どう行動したか記憶がない。副院長に会いに実家に帰ったはずだがはっきりとした覚えがない。書店で癌の本を買いあさったことだけぼんやり記憶に残っている。

相談できない、頼れない

副院長から紹介された若い主治医ははっきりとは余命宣告をしなかった。しかし父親の社会的関係先が広いならそれなりに備えておいたほうがいいといったことをほのめかした。「丸山ワクチンとか希望があれば何でもやってもらって結構です」とも言う。慌てた。混乱した。もっと聞こうと思ったが、何をどう聞いていいかわからなかった。本を読み、会社の知人などに相談した。相談すると「僕の親戚もね」といった話をしてくれる人が結構いて、教えてもらった民間療法などもあたった。しかし、自分だけではどうしようもない。なぜ副院長は母親に言わなかったのか、大人しい母親の精神的影響を心配したのか、よくはわからないが「あんたに」と言われてしまって母親には言えず、故郷で暮らしている妹にだけ打ち明けた。

告知・・・できず

治療が辛くなること、それにどう父親が耐えてくれるか、それがまず心配だった。やはり、本人や母親にもに伝えて家族で支えることが必要だと思い、悩んだ末に副院長に父への告知を相談した。ところが副院長は、「ああ、インフォームドコンセントね。○○君、インフォームドコンセント。」と父の主治医に言いつつ、私に向かって「お父さん、神経質なところがあるからね。知らせてかえって死期が早まる人もいるんだよね」とつぶやく。
告知があたりまえの今とは違い医者にも戸惑いがあったのか。それとも冷静な判断だったのか。いずれにしても突き放された気がした。そして何よりも、医者の忙しさだ。主治医に病状を詳しく聞くとか治療の相談をしようにもなかなか時間を取れない。一生懸命時間を割こうとはしてくれるが、話の途中でも医師のPHSが鳴ったりして全く余裕がない。時間をとってもらうこちらが悪い気がしてくる。こんな状態で告知しても、はたして父親の不安や心配を受け止めてもらえるのか、次第にそういう疑問が湧いてきた。そして、結局、告知はできなかった。
父はうすうす察していたと思う。家族総出で毎日泊まり込むように看病したが、きちんと向き合って話すことはできずじまいだった。入院から半年で父は亡くなった。

妻の癌

7年前、妻に乳癌が見つかった。その年が明けて早々に、検診を受けていた病院の医師から電話。画像の影の形が気になる、と。検査の結果、癌と診断。すぐに手術となった。医師は手術前に、どんな手術になるか、癌の状態によってどこまで手術するか、癌の進行度や種類によってどんな治療になるか、それぞれ予後はどう想定されるかなど詳しく説明してくれた。初めて聞くことばかりで理解するのに必死だったが、きちんとデータも踏まえて明確に説明しようとする意志の態度に安心感があり、妻ともども先生にお任せしようという気持ちになった。
それにしても、癌の種類を検査し、様々なタイプごとに標準的な治療方法や投薬の種類が確立されているのには驚いた。父親の時とは全く違い、癌の医療が日進月歩なのを感じた。

転移!?

乳癌の治療は順調だった。分子標的薬が効くタイプの癌と診断されたので、投薬の副作用も少なく助かった。手術から3年、妻も私もなんとなくもう大丈夫という気になっていた。通院は続いていたが、癌のことは頭から離れていた。そんな時、妻が暗い顔で病院から帰ってきた。CT画像で肝臓に円形の影が見つかったと。転移の可能性があると。
再び医師から説明を受けた。転移癌の場合、どういう治療になるか、予後はどうか。過去の治療経験からどういう治療方法を勧めるか。このときも主治医は丁寧に,また我々が前向きな気持ちを保てるように気を配って説明してくれたが、心なしか表情が固く、厳しい状況になりそうだという雰囲気が伝わってきた。

奈落の底に突き落とされた…

この時はセカンドオピニオンも聞くことにした。そしてその病院では主治医の説明と同趣旨の話を聞いたが、加えて、「通常で7年~10年」とはっきりと余命の見通しを伝えられた。その瞬間空気が凍りついたようだった。受付で清算を待つ間、妻と言葉も交わせずただ手を握り合って座っていた。
このときのセカンドオピニオンは主治医と違って冷徹だったと思う。その後、乳癌の肝臓転移や配転移の癌は予後が厳しいという情報を本やネットで何度も目にした。妻は故郷の義兄に伝えるときに涙したらしい。しばらくして、あと10年と覚悟を決めたようだった。

妻を失う・・・とんでもない恐怖が襲ってきた。子どもが家を出て、妻と二人の生活になっていた。そんな生活が始まるときに自分が妻と二人だけでどう暮らせるか、これは大変だ、恐怖だなどと大げさに思ったりしていたが、そんな思いは吹き飛んだ。妻を、家族を失う苦しさに、どん底に落ちた。身が裂かれるようだった。そして、一人になること、自分と子どもたちだけが残されることを想像すると家庭がいかに妻を中心にして営まれていたかを思い知らされた。

思わぬ結果

主治医の考えで、生検は行わず抗がん剤治療に入り、癌が縮小ないし固定して増えていないと判断されたら切除することになった。針生検で癌細胞が飛び散ることがあること、また、転移癌であれば全身治療になるので手術は主要な選択肢ではないが、医師の経験で切除した方が予後がよかったケースがあることが理由だった。抗がん剤治療はやはり副作用がかなりあった。身体、体調、感染ケア、、、家事をやり、一緒にそばにいて体をさすってやることしかできなかった。

抗がん剤治療の期間が終わり癌の進行や増加がないことから予定通り摘出手術を行うことになった。乳癌手術のときは息子も一緒にいてくれたが、今回は一人で手術結果を待った。終了後医師は肝臓の摘出部位を示しながら、手術は無事に終わったこと、癌はCT画像では一か所しか見えなかったが実際は二か所にあったこと、それは予後にあまりよくない懸念があること、病理組織検査に出して今後の治療方針を検討することなどをその場で説明してくれた。

妻にも医師の話を伝えたが、癌が複数で予後の心配があることは言わなかった。言えなかった。そのとき言わなかったために、いつ、どのように、どこまで伝えるかという悩みを抱えた。検査に時間がかかったのか、医師からの連絡が一か月以上来ずモヤモヤした気持ちが続いた。父親の時ほどではないものの、病状を本人と共有できない辛さを再び感じた。結局いつ伝えたのかよく覚えていないが、癌が二つあったことだけは医師の話の前に伝えた。

ようやく医師からの説明の日が来た。どんな話になろうとしっかり妻を支えるんだという気持ちで臨んだ。結果は意外だった。摘出された組織は乳癌の肝臓転移癌ではなくて別物だった。しかも、癌ではなく類上皮血管内皮腫という極めてまれな腫瘍で、症例が少なく摘出手術以外の治療法もないという。ただ、悪性腫瘍ではあるが進行が遅いか、予後が長いケースも過去にはあったということで、医師としては乳癌の肝臓転移よりいい結果だったと伝えてくれた。治療法はないので、乳癌のホルモン治療を続けつつ、経過観察となった。

私はホッと気持ちが休まるのを感じた。自宅に帰ってネットで様々検索して医師の話を消化した。一方、妻には戸惑いがあった。素直に良かったとは思えていないようだった。確かに、何者かわからないものを体内に抱え込んだわけだし、治療という目標もない。一度余命への覚悟を決めたあとでこころの置き場がなくなったような感覚だったらしい。

肝臓の手術から4年近くなる。今のところ変化は見られず、落ち着いた日常に戻っている。
ただ、この間の癌との闘病は、仕事を定年で辞めたこととも重なり妻のメンタルに深いところで影響を残していると感じる。

(死ぬまでは)健康に生きたいが…

父親や妻のことがあったからか、癌と離れた人生はないような気がどこかでしている。

60歳以降のシニア人生を考えたときに「(死ぬまでは)健康に生きる」ということを自らの方針の一つとした。まあ、だれでもそう思う当たり前のことだが、長生きしたいということではない。自分で自分の体をまっとうしたいという気持ちだ。そういう気持ちで身体に意識を向け、バランスをとろうとし、適度に鍛えたりすることを心掛けている。
しかし、問題がある。酒だ。子どもの頃から父親とは違う自分をずっと意識してきたが、何のことはない。結構似ている。歯ぎしり、寝言、いびきはしっかり受け継いでいるし、特に酒の飲み方が同じだ。量も回数も多いが、外で飲んだ時のはしご酒がそっくりそのままだ。父親は煙草も吸っていたから食道癌リスクが余計大きかったと思うが、飲酒だけでも相当なリスクという。
自分の癌とのつきあいは酒とのつきあいに尽きるのだろう。

ロンドンに行ってきた〜妻との協働〜

ウェストミンスター寺院の中庭から望む国会議事堂
ウェストミンスター寺院の中庭から望む国会議事堂(水彩)

日記といいつつ・・・大きなウンチ

日記を書くということで始めたのに、長々と過去のことを書き連ねてしまった。時間にすると30年くらいのキャリアにまつわるこころの動き。言葉にしておきたかったのだ。形になるのを求めて溜まっていたものを言葉にして外に出したのだと思う。
大きなウンチをしたような気分だ。まだ出きっていないというか、決着がついていない不明なものも残っているが、ひとまずスッキリした。小さなこどもが「ウンチでた〜」と喜ぶような感じだ。産み落とし感もある。スッキリしてまた元気に走り回れる感じだ。日常のことを書いていこうという気持ちにようやくなれた。

妻と二人の旅行って

先月、コロナ感染第7波のさなかに妻とロンドンへ行ってきた。10日間。娘が勤め先の長期出張命令で一年間のロンドン勤務になっていたので、帰ってくる前に訪ねていこうかというのがきっかけだった。2〜3ヶ月前に決めたのだが第7波がどんどん酷くなり、本当に行くのか二転三転。しかし、妻の昔の友人にも現地で会えることとなり、こういう機会もそうないと決行した。

もう一つ別の思いもあった。妻との共同作業機会をつくることだった。コロナ禍の中での20年ぶりの海外旅行、しかも自分たちで手配・準備するのは初めて。政府の水際対策のおかげで出発前も帰国前もかかる手間は半端ない。妻は心配性なところがあるから共同作業のハードルは高くなるのは見えていたが、一緒に越えてみようという思いだった。

それにしても妻と二人だけの旅行である。
そもそも我が家は家族旅行自体多くなかった。子どもを二人連れてそれぞれの実家に帰省するくらい。20年前にひょんなことから家族で初めての海外旅行をしたが(それがインドだったというのも笑えるが)、それもパックツアー。旅行を楽しむという時間の使い方はそんなに馴染みのあるものではなかった。それを妻としようというのだ。

実はその二人だけの旅行を、妻が定年を迎えたときに一度した。新婚旅行以来35年ぶりだった。ほとんど初めての二人旅行のようなものだ。「旅行してみないか」と提案するのも勇気がいった。「何なの突然?どうしたの?」といぶかしがられそうな気がした。行き先は故郷に近い観光地にした。少しでも馴染みがある方が言いやすかったからである。

妻は定年後は非常勤となり出勤が減る。自分は大学院進学で仕事をセーブする。子どもは仕事や遊びでほとんど家にいない。そのうち家を出る。つまり、二人だけで顔を合わせる時間が圧倒的に増えるのだ。それは逃れられない現実だった。濡れ落ち葉だの粗大ごみだの定年後の夫を揶揄することばがある。自分は好きなことをすればそうはならないだろうと思っていたが、夫婦ふたりだけの時間には正直言って「恐怖」があった。何を話せばいい?何をすればいい?
子どもがいる間は家の中は子ども中心に回っていて、妻と子ども三人の会話世界に少し離れて(だいぶ離れて?ズレて?)自分がいるという構図だった。サラリーマン時代は午前様もいつものこと。それが日常だった。その日常が様変わりするのだ。恐怖でなくて何であろう。

この現実に適応しなければならない。これを乗り越える一手がいる。だんだんそう思うようになった。そこで、妻の「定年慰労」を名目に二人旅行を提案したのだ。自分に対して荒療治をするような気分だった。電車の中での時間、宿での時間。不安だった。しかし、突然会話が増えるわけではないものの、旅行先なのでそれなりに話題は見つかる。結果、無事に旅行を終え、妻に「楽しかった」と言わしめた。これで気分がぐっと楽になった。

今回のロンドン旅行はその第二弾。一回経験しているから二人で旅行することそのものに不安はない。今回はどちらかといえば準備の作業を共同ですることに主眼を置いた。バージョンアップだ。加えて、定年後に職業というキャリアの柱を失い、病気もして、やや気分が不安定になりがちだった妻のリハビリ的なものになればという思いもあった。準備作業はそれこそ気分的に浮いたり沈んだりだったが、なんとか出発にこぎつけた。

スマホは偉大だ

ロンドンは新鮮だった。
残念ながら英語はあまりわからず、特に食事の注文には苦労した。何を注文するにも、あれはどうする?これはどっちにする?といちいち聞かれて閉口した。このことを妻の友人のご主人(英国人)に話すと、「日本では逆に何でもセットになっていて、注文の自由がないね」と言われた。なるほど。所変わればである。

支払いは何でもコンタクトレス(タッチ決済)のカード。これは便利だった。帰国後のカード請求額は心配になったが(円安進行中だったし)、確かに便利。日本もどんどんキャッシュレスになっていくのだろう。

中近東出身と思われるアラブ系の人が多いのも意外だった。滞在していた場所がとくにそういうエリアだったようだが、それにしても多かった。
海外旅行者が多いせいもあって、いろんな国の言葉が溢れている。風貌もいろいろ。そんな中にいるから日本人であるこちら側に違和感はない。しかし、アジア系、特に日本人と思われる人は少なく感じ、そういう人にすれ違うと逆に気になってしまった。自分たちはどう見られるのだろうなどと考えてしまった。ダイバーシティには程遠い自分がいる。

そして、一番驚いたこと。それはスマホの威力。
ある時、妻と「あんまり外国にいるというストレスがないよね」と会話した。娘のアパートで寝泊まりしたというのが最大の理由だが、もう一つあった。それがスマホだ。
娘と一緒といっても向こうは仕事だから、夜たまに会う程度。ずっと妻と出歩いていた。そのときに活躍したのがスマホのマップアプリだ。Citymapperという。Google Mapも使えた。行き先を入力すれば道順はもちろん、バスや地下鉄の駅、次のバスが今どこであと何分で来るかも表示される。地図とこれで移動は楽ちん。レストラン探しにも役立った。これでストレスフリーとまでは言わないものの、かなりのストレス減になったと思う。

スマホの翻訳アプリもかなりのものだと発見。一緒になった日本人カップルがメニューをカメラで撮って翻訳していた。我々も使ってみたが、魚の名前はカタカナのままで残念ながらわからなかった(笑)。でも、これもどんどん進化するのは間違いないだろう。

ロンドン:ウォータールー橋から観るテムズ川:ハンガーフォード橋、ビッグ・ベン、国会議事堂
ウォータールー橋から観るテムズ川(鉛筆)

勉強がキャリアの中心軸ではだめですか?

大学院・・・受験勉強がこんなに楽しいなんて

大学院を受験する。そう決めてから周りの景色が一変した。どんどん自分で道を作っていった。かみさんに相談して、子どもの卒業で浮いた学費を回してもらうことにした(本来老後資金となる金だった)。仕事先に相談して、契約は継続しつつ仕事量を調整してもらった。大学院経験者に院での学びや受験の準備方法を聞いた。大学院の説明会や、予備校(大学院受験にもあると知ってびっくり!)もあちこち訪ねて受験イメージを固めた。こんなに段取り好きだったか!?自分でも驚くほどだった。

もっと驚いたことがあった。受験勉強が楽しかったのだ。楽しくてしかたなかった。高度成長期の受験戦争をくぐり抜けてきた世代だ。お手の物といえばお手の物。単語帳を作って丸暗記するかのような勉強の仕方にも懐かしさを覚えた。学習目標を決め、予備校のテストで結果が出るとモチベーションが一層高まった。若いときからそんなふうに飼いならされてきたのかもしれない。しかし、やがて気づいた。
これは内発的なモチベーションだ。・・・自分は勉強好きなんだ。

大学院・・・人生の贅沢

仕事に対する気持ちも落ち着いてきて、かえって仕事は順調になった。こんな感じで両立できたらいいかもしれない、これが自分のスタイルになるかもしれない、そんな思いも湧いた。しかし、自分の気持が勉強に向かっていることのほうが確かだった。

大学院は心理系でも臨床心理を選んだ。別にメンタルヘルスをやりたいわけではなかったが、少しでも実践的なものを学びたかった。当初は研修などの仕事の武器にしたいという気持ちだったのだが、これも次第に正体がわかってきた。実は自分に興味があるのだ。
自分は何者か。変われるのか。変わりたいのか。変わるとはどういうことか。60歳以降の人生をどのような人として生きていきたいのか。そして、その自分のコアが見つかったらそれを活かして人の役にたちたい。それはどんなものか。

今から思うとやりたかった分野はキャリア心理学やカウンセリング心理学だったのだろう。修論は指導教官の「好きなことをやったら」の一言で、定年前後のサラリーマンの意識を探ることにした。同年代は何を感じ、考え、どう対処しようとしているのか。論文は臨床テーマでなければいけないと思っていたから気が楽になり、モチベーションもあがった。もっとも、臨床心理学で人の精神(と呼ばれるようなもの)に目を向けることができたこともよかった。

そしてなにより、学ぶことがやっぱり楽しかった。授業を受ける、先生に質問する、疑問が晴れる、考えていることがクリアになっていく、ディスカッションする、気づいて深まるetc.etc. 自分の子どもより若い人たち、今まで接点がなかったような社会人、いろいろな人と交流する、飲んで歌うetc.etc. 大学生に戻ったような感覚だった。こんな贅沢はないと思った。かみさんに感謝した。

生産と消費・・・消費型人生の社会的価値

自分探しというテーマを背景に楽しい学びの時間にどっぷりとつかりながら、ひとつのことが気になっていた。それは人生とかキャリアの中での、生産と消費という問題。
アウトプットすることが嫌いではない。働くことが嫌なのでもない。だがインプットのほうが好きなのだ。なぜか。きっと自分にとってインプットが広い意味の遊びだからだ。
働かないで遊んでいたいという気持ちも正直にある。ただ、ずっと遊んでいたいのか、ずっとインプットしていたいのか、それでいいのか、それだけで満足できるのか、そう問いかける自分もいて、YESとは言い難い。

学習(社会的には教育)活動は経済学的には投資ではなく消費とされる。しかし、GDP(生産)=消費+投資+α だから消費には生産を支える柱という面がある。消費の何が悪い。しかも、40年近く必死に生産機能をはたしてきたのだ。残りの人生を消費中心にしてバランスさせるということでいいじゃないか。そういう考えも当然ある。リタイアした多くの年金生活者はそうだろう。消費中心の生活で満足を得ていく(左うちわで遊んで暮らせるほどでなくても、日々の生活を楽しんだり、ときどき非日常の体験にお金を使ったりして)。
しかし、自分はそういう人生では満足できない面がある。そういう人生に後ろめたさもある。仮に見かけは同じようであっても、違うといえるものを探している。社会・経済的には消費中心の生活でありながら、それが社会的に価値をもつ生活(経済面で結果的に生産を支えているということではなくて)を探している。だんだんそう思うようになった。

学習することが自分の喜びに直結しているとわかる中で、他にも自分がシンクロしていく方向性がぼんやり見えてきた。J.ホランドのパーソナリティ・タイプ論(RIASEC)でいえばA:芸術的、S:社会的、I:研究的が混じり合う方向、E.シャインのキャリア・アンカー・カテゴリーでいえばLS:生活様式、SV:奉仕・社会貢献、TF:専門・職能、AU:自律・独立がバランスする方向(中でもLSの統合的なあり方)だ。
どちらの理論も各タイプやカテゴリーに対応する職務・働き方を前提にし、(初期キャリアやミッドキャリアにおける)職務とのマッチングの観点でそれらの概念に言及している。しかし、私がRIASECやキャリア・アンカーで自分の方向性としてとりあげたのは職務適性ではなく、そこにある生き方の方向性だ(※)。それが統合されて、ぼんやりとだが自分という存在が描ける気がした。そして、そこでも気になったのは、そのようして描ける自分の志向性はやはり社会の中で生産する側より消費にする側に偏る生き方につながるだろうということだった。

しかし、なぜそんなに消費中心の生活を否定的に意識してしまうのだろうか。生産の舞台から離れる寂しさ、社会の当事者でなくなるような気持ち。そんなものも確かにある。ただ、それは後輩へのバトンタッチ、後進の指導や育成というキャリアの展開と考えれば収まる気持ちではないか。E.エリクソンが区分けしたGenerativityに第二段階を設けるようなものだ。それが嫌なら現役にこだわればいい。
それよりも、消費中心の生活に罪悪感さえ感じる自分がいることのほうがやっかいだ。後ろめたさを感じるというやつだ。その罪悪感から逃れるために働く(働かされる)ことになりかねない。なぜそこまで思うのだろう。
生産(Generativity)段階の時期に「やりきった」感がないからかもしれない、と自責的に思うところもある。しかし、本質は違うと思う。それは、きっと今までの人生が生産に価値を置く人生だったからだろう。生産量と生産性、成果を上げることが社会的に最も高い価値をもつ時代に育ってきたからだろう。その世の中の価値観から離れられないのだ。働くことは嫌じゃないし、勤勉は美徳だと思う。しかし、こういう生産至上主義的な経済オンリーの価値観には縛られたくない(生産すること、成果を上げることの中にいろいろな喜びがあるにしても)。

決着はついていない。しかし、少し落ち着いた

大学院修了時にこれからの生き方の柱にしようと決めたことがある。いえばあたりまえ、何の変哲もない5項目だが、ごく自然に自分のことばとして浮かんできた。
1.(死ぬまでは)健康に生きる
2.(自分や妻の兄妹もふくめて)家族を大切にする
3.(年金で足らなければ仕事や利殖などで)経済的に自立する
4.(どんな小さいことでもいいので)人のお役にたつことをする
5.(あとは)好きなことをする
こんなことをこころに決め、スッキリした気持ちで大学院を修了した。

その後いろんなことが、自分にとって意味のあるものとして起きた。
仕事をカウンセリング方向に変え、学習範囲が格段に広がり、新しい人との出会いや交流があり、メンタルクリニックで大変な失敗をしでかし、逆にカウンセリングの手応えも感じ、それまで趣味でやっていた絵に自分を表現できると感じるようになり、娘の楽器を借りて演奏を習い始め、もっと多くの表現手段を身につけたいと思うようになり、高齢の母親のことで郷里の妹たちとのコミュニケーションが格段に増え、妹家族の相談も増え、実家への帰省が頻繁になり、中学・高校時代の同級生との交流が再開し、、、

大学院で考えたことと合わせて、こうしたイベントが自分の生き方イメージの周囲を回るように重なり、自分のありたい姿がすこしずつ言葉になってきている。
「学ぶこと、探求して身につけたことを軸にし、それを自分を表現する方向で使う。働いて社会と接点をもつというより、広い意味で自分を表現することや自分自身の生き方そのもので社会と接点を持ちたい。アウトプットよりインプットが好きな自分が、インプットしたことやインプットすることそのもので人とつながっていたい。そういう生き方をしたい。」
もっとも、まだ方向性やイメージの段階だし、抽象的で我ながら意味不明な点もある。それがどう具体的な形になるのか、自分の生き方に決着がついたわけではない。決着をつけるべく、あるいはもっと明確に見えてくるように、生き切ろうと思っているだけだ。しかし、こころは少し落ち着いている。

こうしたマインドセットを得られたのも大学院の受験と学びという経験があったからだと思う。修論で同年代の人の話を聴いて視野が広がったこと、シニアキャリアに対する自分なりの視点が持てたことも大きい(※※)。そして何より、修論や臨床系の資格取得をふくめ大学院を存分に楽しみ、やりきったという経験が人生のピボットになったと思う。

(※)RIASECやキャリア・アンカーはキャリア形成の只中にいる人にとって自己理解の参考になるが、すでに職業選択をしたあととか、組織の中で一定の役割・ポジションにいるとか、バイアスのかかりやすい状況下での回答になることも多い。結果に違和感や複雑な感情を抱くこともあるはずだ。私のようにシニアの生き方の方向を探るきっかけとして使う方法は悪くないと思う。ある書籍によれば、M.サビカスのキャリア構成インタビューでアメリカではRIASECが使われるとか(アメリカではポピュラーなので)。具体的な使用場面は不明だが、キャリアのストーリーを紡ぐきっかけに使えるだろうと思う。

(※※)ちょうど大学院を終了した年に、楠木新さんの『定年後』が出た。似た視点があると感じて面白かったし、取材対象が多く勉強になった。ちなみに著者とは同い年だ。その頃に比べて、今は定年関連書籍があふれるように出版されている。

大学院受験まで

自問自答では答えは出ない

「何をしたいのか」「何を仕事にしたいのか」、40代にサラリーマンをしながら何度も自問自答した。しかし、いつもこれだという答えは見つからないまま、当面、あるいは将来に備えてこんなことをやっておこうといった今年の抱負みたいなものを書き出しては終わっていた。その作業で少しは落ち着くものの、結局不全感を抱えたまま。また同じことを繰り返す。
当然だ。将来に考えを伸ばしてタイムラインのようなものを作っても、いつまでに何が必要だといった課題はバラバラ出てくるし、単発のウォンツは出てくるが「これをする」という軸がないから課題やウォンツはそのまま、統合されないのだ。

今思うと、こうした「自分は何をしたいのか」という問いに答えを(正解を)先回りして見つけようとしてもそれは違うのではないか。ましてや自問自答では無理だ。考えることは必要だが考えるだけでたどり着くものではないのだと思う。

体験したことや人との出会いで何かに気づく。しかも、それは答えではない。その気づきをなんとかしようという覚悟と行動があって少し手触りのある何かになっていく。その意味ではプランド・ハップンスタンス的だ。しかも、より意味のあるのは、到達した(と思う)何かよりもそういうプロセス自体だ。

今はそんなふうに思える。でも、その最中は模索、手探りでしかない。こころの浮き沈みがつきまとう。だから、暗中模索しながらもそれに耐えられる、いや、それを楽しめるプロセスに身を置くことが大切だ。
そう思えるようになったのは自分の場合は大学院を受験したことにあるようだ。

サラリーマンなりにもがいてみた

40歳を過ぎて、グループ会社に転籍した。以前からの同僚がその会社の社長になることが内定していて、一緒にやらないかと声をかけてもらったのだ。本社での自分の状況に行き詰まりを感じていたし、とてもありがたく思った。しかし、すぐには決断できなかった。興味のある事業分野だし、堅実な業績をあげている会社であるにも関わらず、迷った。給与が下がるとか、本社からの都落ち感とかそんなものではない(実際に条件面は問題なかった)。それは、本社にいればいろいろ他の可能性もあるのではないか(それを諦めることになる)、本社にいれば何かがあっても安心じゃないか(寄らば大樹の陰。そのリスクをとることになる)、そんな気持ちだった。

なんのことはない。やりたいことを見つけ、それが見えたら会社を辞めるくらいの気持ちでいたのに、実際に決断を迫られてあぶり出されたのは、なんでもやれるという可能性(幻想)に守られていたいという単純すぎるほど単純な現状維持欲求だった。
自分の場合、可能性があるというのはそういう環境にいる(と思っている)だけの話。実は可能性という言葉にかこつけて現状を保留しているだけなのだ。本当に可能性があるならチャレンジしているはずだし、実際には動き出せない自分に現実としての可能性(現実化していく可能性)はないのと同じ。そう気づいた。ならば、可能性という言葉にこのままでは意味はない。あたらしい会社で可能性を考えるほうが意味がある。

そう考えて転籍を決意した。
新しい会社の空気は新鮮だった。新卒で元の会社に就職したときの気持ちや、自由さを取り戻したような感覚だった。素直に会社や職場に溶け込み、仲間との信頼関係も深まっていった。いい感じだった。
しかし、6年、7年と時間が立つうちに、再び「仕事で自分を活かしきれない」という思いがもたげてきた。求められるレベルがどんどん上ってきた。とはいえ興味のある事業分野、馴染みのある仕事内容だ。できないはずはない。そう思って頑張ったが、違和感がつのる。自分が変われないことを感じた。殻を破れない。

退職、業務委託、しかしプロにはなりきれず

50歳を迎える年に退職した。子どもはまだ学生だったが、妻も仕事をしていたので、経済的には退職金や持ち株などをはたけばローンを返済してなんとかやっていけると思った。
サラリーマンを続ける意思はなかった。組織には恵まれてきたが、個人の自由を求めた。ただ、それまでの仲間との縁がすっぱり切れるのはできれば避けたかった。しがらみは嫌だと思う反面、人間関係志向も強かった。結果、その会社の業務委託者として仕事をすることになった。ただし、研修講師という特殊な仕事集団に属することになった。その企業の事業を支える仕事だ。これも興味のある分野だったし、適性も、対応できる能力もあると思った。

組織のサラリーマンとピンで仕事をするのは違う。つきつめると能力や適性の問題ではない。覚悟の問題だ。サラリーマンの中にもプロ意識の高い人はいるだろう。そういう人は独立もスムーズかもしれない。しかし、自分はどっぷりとサラリーマンだった。独立事業者として人前に立つようになってそのことを思い知った。プロ意識は弱かった。

仕事はなんとかこなしてはいたが足元はグラグラ。自分のやっていることに自信が持てなくなっていた。「やりたくない」そう思いはじめていた。しかし今はそう言えるが、そのときはそう正直に思えていなかった。自分にウソをつき目をそむけていた。「やりたくないわけじゃない。やれないのは自分が悪いのだ」「何かが足りないのだ」と。そのくせ「失敗する」と呆然と自分をながめてもいた。実際に失敗し、情けなさで仲間に涙を見せるほど落ち込み、意地でなんとか盛り返し、、そんなことを繰り返したが、自分をいつわっているような苦しさがずっと底にあった。またしても変われない自分がいた。徹底的に変われない。それまでの人生で一番痛感した。・・・今思うと、変わりたくないと何かに抵抗していたのかもしれないが。

模索した。前向きにいえば自分を仕事に向かわせる武器を持ちたいという考え、後ろ向きにいえば仕事とは別に自分を支えるものを持ちたいという逃げ。それを実現するための何かがないか、そんな考えが湧いてきて、漠然と何かをさがしはじめた。いろいろ手をだした。そして心理学に気持ちがとまった。放送大学の講座で勉強しはじめた。
当初は、心理学の学習を「今の仕事で自分を活かすキーにしたい」と考えていたが、次第にそれは建前だなと思うようになった。学びたいから学んでいる。そういう自分に気づいた。「仕事のため」という大義名分がなくなる後ろめたさが襲ってきた。しかし、行くところまで行ってみようという気持ちも大きくなった。勉強しながら自分探しをしたいと思うようになった。

そんな心理プロセスを経て、大学院受験を目指すことにした。60歳になる年だった。

こころの中のキャリア・ドリフト&マイニング

何をしたいのか

勤めていた会社が嫌いだったわけではない。多分、他のどの会社に勤めるより自由だったと思う。束縛の少ない、ゆるい会社だった。しかし、プレッシャーはきつかった。競争意識もかきたてられた。今思うと、常に背中を押されて走らされている感じだった。
仕事が嫌だったわけではない。気の合う楽しい仲間も多かった。自分の適性的にはかなりマッチしている仕事と職場だったと思う。しかし、自分を出しきれない、活かしきれていないという思いはくすぶっていた。周りの目を意識しすぎる性向があって、失敗を恐れて自分を抑えてしまうという自己の問題はあった。けれど自分や環境のせいだけではない、仕事そのもののへの不全感、没入できない感覚。そこから来る自分へのいらだちや焦り。
日々忙しく仕事に追われる中で、こころの隙間にどろっと入り込むように「何がしたいのか」という問いがうごめいた。

妄想、夢想、、時間だけが過ぎていく

たまの休み、いや、仕事が片付かず休日出勤したり家で机に向かうとき。終わっていない宿題を抱えながらテレビを観るように、一夜漬けの試験勉強のときにマンガに逃げ込むように、何をしたいのかとぼーっと考えてしまう。
こころに浮かぶことは断片的で、非現実的というか、自分でも本当にやりたいのかと疑うようなこと。やってはみたいが、やれる能力があるのか、それで生活はなりたつのかと疑問がついてまわるようなこと。

声を褒められたことがある。録音で聞く自分の声ほど嫌なものはないのに、それを褒められた。カラオケが好きで歌声も独特だと言われた。自分の声を活かしたい、そう思った。ボイストレーニングをしてみたい、朗読もいいな・・・しかし、だから何?アナウンサー?歌手?役者?ぜんぜん違う。そこで思考はストップ。自分の声の何を、どこを褒められたのかもわかっていないから展開もしない。

紀行文を書いて生活できないか、とも思った。そんなに旅行好きというわけでもないが、自分の旅先での体験を書き連ねてみたいと思った。しかし、そんな筆力があるのか、他の人にない着想やセンスがあるのか。ない。なのになぜそんなことを夢想するのか。ふと思い当たった。高校生のときに夢中になって読んだ小田実の『何でも見てやろう』。ああ、これね。大学生のときに今はなきユーゴスラビアを旅行したが、それもこの影響だったのかと気がついた。そして、再びそこで思考はストップ。

勉強したいこと、単純に経験したいことは結構出てくる。英語を勉強したい、使えるようになりたい。中国語や韓国語も学びたい。他の国で、長期ではなくとも暮らしてみたい。楽器もなにかひけるようになりたい。芝居もやってみたい。蓄財も、将来に備えて学んでおきたい。いや実際に蓄財できなければ意味がない。株でもやってみるか。昔、賃貸マンション投資をしてバブル崩壊で失敗しているから金儲けのセンスや運はないけれど、少しずつ気長にやれば。

ふと気づく。あれ、仕事を何がしたいのかじゃなかったのか、、。そう、仕事がでてこない。株で大儲けしたら何もせず遊んで暮らせる、それもいいか、、そうしたいか、なりたいか、う〜ん。儲けてもいないうちから考える。そうなりたいような、それではつまらないような。
突然思考は飛んで、続けられる仕事は何かを考え始める。「したいか?」だと答えがでない。「いやじゃなくて続けられるか?」なら何か出てくるかもしれない、、う〜ん、、職人?何の?わからない。なりたいスタイルは浮かぶけどしたいコンテンツは浮かばない。

さらに現実に近づく。今の仕事に関連して続けられそうな仕事はないか。今の仕事がまったく嫌なわけではないのだから、延長線上で思いつく仕事もある。研修講師?カウンセラー?コンサルタント?
実は、結局こうして考えたのに近い仕事をその後やることになるのだが、その当時、こうやって妄想、夢想していたときにはあまり現実的には考えていなかった。続けられるかもしれないが、そんなにやりたいわけでもないな、と。

こんなことを何度も何度も繰り返していた。ある種の頭の中のキャリアドリフト、あるいはキャリアマイニング(こんな言葉があるか知らない。造語)。当然、休日出勤は極めて非効率的なものだった。

人生の逆算

逆算のきっかけ

人生の逆算とは残りの人生の長さを意識して、今、あるいは数年後に何をしたらいいかと考えることだろう。いつ死ぬか、いくつまで生きるかなんてわからないのだからそんなことを考えてもしようがないともいえる。若いときはたいがい前に進むことしか頭にないからそんなこと考えもしない。それが、あるときふとこころの中に浮かんできた。

父親の死が一つのきっかけだったが、自分も父親のように早く死ぬかもしれないと思ったからではない。父親がサラリーマンを辞めて知人と始めた小さな商売をどうするかということと、自分自身の仕事の行き詰まりが重なって、会社を辞めてその仕事を継ぐかどうかを迷ったことが大きかった。

仕事の行き詰まり

当時40歳。その2〜3年前くらいから会社で自分の居場所が狭くなっていくような感覚があった。会社の成長や事業の広がりが急激で、求められるものが変わっていった。企画力に優れ、推進力の高い若手がどんどん現れ活躍し始めた。自分も一定の評価でそれなりのポジションにいたが、そうした能力のある同期や若手が昇進していくのを見て、人間関係重視の調整型の私は追い詰められていくような感覚を持ってしまった。

実は父が発病する前に、そうした自分の気持ちを吐露したことがある。思春期以前から父に内心抵抗したきた自分としては情けない気持ちもあったが、父はそれを聞いて、辛かったら故郷に帰ってきて自分の仕事を継げば良いということを言ってくれた。少し安心した。そのことも頭に残っていて、父の死をきっかけにどうするか悩んだ。父が始めたものを息子として手放していいのかという、それまでは思いもしなかった気持ちにもなった。

こころの中の漂流が始まった

しかし結局あとは継がなかった。父が遺したものを守る気もち、母や祖母を守る気持ち、自分の仕事の状況からの逃げ。それだけが動機で、やりたいことかどうかという視点はなかった。妻や子どもたちを引きまとめて新しい生活を築くなどといった覚悟は全くなかった。自分の家族と実家との二重生活が成り立つかどうか、経済的に成り立つかどうか、そんなことばかり考え、決断がつかないまま疲れ果てた。結局、父の仕事は自分がやりたいことではないのだと馬鹿みたいな単純なことに気づき、あとを継ぐのはやめた。会社にも残った。

会社に残ることにはしたものの、感じていた行き詰まりをどう打破するのか、サラリーマンという状況から逃げ出したいと芽生えてしまった気持ちをどう処理するのか、会社を辞めて何か選択肢はあるのか、そういう悩みはどんどんはっきりしてきて、心のなかで漂流が始まった。

キャリアの時間軸を引いていた

そのとき同時に浮かんできたのが人生の逆算的な思考だった。
いくつまで生きるのだろう、あと3〜40年生きるとしたらいつまでサラリーマンを続けるのだろう、その先何をしたいのだろう、どんな暮らしをしたいのだろう。
子どもの年齢を考えて、あと何年サラリーマンとして我慢するのか、そのとき金はどうだったらいいのか、どうやって蓄財するのか、辞めて何で稼ぐのか、いくら稼げばいいのか。
いつのまにか、誰に教わったのでもないが、キャリアデザインでよくやる時間軸を置いたプラニングシートのようなものを自分で作って思考を巡らせていた。

何度かそうした思考実験(?)を繰り返した。集中してやったわけではない。仕事をしながら、気持ちが乗らないときに家で自分のmental hygieneのためにやっていた。ただ、そのうちにサラリーマンはあと10年くらいという数字が見えてきた。50を過ぎたら別の自分でいたいという気持ちが見えてきた。
しかし、そうした作業をするにつけ、50過ぎて何をしていたいのか、どんな自分でいたいのかという自問が繰り返され、ブラックボックスになっていった。
こころの中の一方でプラニング作業をし、一方でドリフトするという感覚が続いた。

父親と息子

安倍元首相が死んだ

安倍元首相が手製の拳銃で撃たれ亡くなった。戦後の混乱期ではあるまいに今の時代の日本でこんなテロが現実とは・・・衝撃を受けた。
言論の暴力による封殺、民主主義への挑戦といった言葉が直後のメディアにあふれた。
犯人の動機は別のところにあるようで個人的なものらしい。だから、そうした論調に当初は違和感を感じたが、よく考えてみるとたしかに民主主義を危険にさらす脅威だといえる。
自分の意見を公の場で広く表明しているまさにそのときに、白昼、公衆の面前で殺される。それが誰にでも起こりうると感じられたとき、それは恐怖として伝播し、人の口を閉じさせるだろう。
誰でも手製で拳銃が作れ、人を殺せる。その事実。テロが別の世界のことでなく、日本の日常も隣り合わせになっているということか。そういう時代になってしまったということか。

67歳での死

安倍元首相は67歳で亡くなった。1954年生まれ。誕生日の違いで私は68歳だが同じ年の生まれだ。父親の安倍晋太郎氏も67歳で亡くなっている。晋太郎氏はガンによる病死だった。私の父親も68歳でガンで亡くなった。
安倍元首相は体調の問題もあってその座を退いたが、まだまだ政治家としてやりたいこと、やるべきと思っていたことがあったはずだ。それを考えると若すぎる逝去だと感じられる。総理戦に一度は敗れた晋太郎氏も道半ばという思いだっただろう。

自分の父親がガンと知らされ、闘病わずか半年で亡くなったとき、私も「早すぎる」と思った。しかし、死後に思い返してみると、父は病室で「好きに生きたでもう死んでもええんや」とつぶやいたことがあった。告知はできずじまいだったのだが、死期をさとってそう自分に言い聞かせたのだろうか。あるいは、息子の私にそう伝え、何かをわかってほしかったのだろうか。

父親の死の意味

安倍元首相はどんな思いで父晋太郎氏の死を見つめたのだろう。すでに父親の秘書となっていて、父方、母方両方の政治家閨閥に生まれ、父の跡を継ぐことは自明だっただろう。ただそれが早まっただけということだったかもしれない。でも、父親の果たせなかった夢を自分が実現する弔い合戦のような気持ちだったのではないか。さらに、多分、孫として小さい時から可愛がってもらったであろう祖父の岸信介という存在にまで届き、超えたいという思いもあったかもしれない。

そんな安倍氏と比べるつもりなどないが、自分は父親の死で何を思っただろうか。

正直なところ、父親にはずっと距離を感じてきた。子どものときから。オイディプスコンプレックスはなかったが、自分の中の超自我にはなっていた。その重しから逃げたいという気持ち、とにかく家を出たいという気持ちで大学に進学した。

結婚し、子どもも生まれて、家庭をもつようになってから父親の見方が少し変わってはきた。離れて客観的に見れるようになったのか、つながりを回復するような気持ちにもなった。けれど、距離がぐっと縮まったわけではなかった。そんな父親が突然のガン。混乱した。混乱したままに亡くなってしまった。悲しい気持ちはあったが、冷めた気持ちというか、悲しさに浸れない複雑な気持ちがあったように思う。
残される母親のこと、祖母のこと、家のこと、地元にいる二人の妹のこと、父親がやっていた小さな商売のこと、、、同時に、自分が仕事で行き詰まっていること、自分の家族のこと、、考えることがだだんだん自分のことになってきて、セルフィッシュな自分に後ろめたいような気持ちにもなった。

ただ、そんな中、何かを引き継いだという気持ちもあったと思う。明確なものではないが、バトンを受けたような。それまで、面倒くさいとしか思わなかった田舎の墓のことも考えるようになっていた。自分の子どもを残すということはこういうことなのかもしれない。
父親がつぶやいた「もう死んでもええんや」という言葉は、息子としての自分がいたから言えたのではないかとも思う。自分自身も、もしいま死の宣告を受けたとすると「早すぎる、もっと生きたい」という気持ちと同時に、子どもに「あとは頼む」と言って死を受け入れる気持ちになるのではないだろうか。ま、そうなってみないとわからないが。じたばたするだろうが。

人生の逆算

そして、もう一つ。そのころからなんとなく頭にあったことだが、父親の死をきっかけにはっきりと意識し始めたことがある。
それは「あと何年生きるのだろう」「死ぬまでの人生をどう生きるのだろう」と人生の逆算を始めたことだ。当時40歳。ユングのいう人生の正午。まさに、人生という一日の後半に入るという意識だった。今思うと、中年期の心理的危機のとば口に立っていた。その時から今68歳になるまで、潜在的にではあるが、結局同じことを意識し、考え続けてきたような気がする。