こころの中のキャリア・ドリフト&マイニング

何をしたいのか

勤めていた会社が嫌いだったわけではない。多分、他のどの会社に勤めるより自由だったと思う。束縛の少ない、ゆるい会社だった。しかし、プレッシャーはきつかった。競争意識もかきたてられた。今思うと、常に背中を押されて走らされている感じだった。
仕事が嫌だったわけではない。気の合う楽しい仲間も多かった。自分の適性的にはかなりマッチしている仕事と職場だったと思う。しかし、自分を出しきれない、活かしきれていないという思いはくすぶっていた。周りの目を意識しすぎる性向があって、失敗を恐れて自分を抑えてしまうという自己の問題はあった。けれど自分や環境のせいだけではない、仕事そのもののへの不全感、没入できない感覚。そこから来る自分へのいらだちや焦り。
日々忙しく仕事に追われる中で、こころの隙間にどろっと入り込むように「何がしたいのか」という問いがうごめいた。

妄想、夢想、、時間だけが過ぎていく

たまの休み、いや、仕事が片付かず休日出勤したり家で机に向かうとき。終わっていない宿題を抱えながらテレビを観るように、一夜漬けの試験勉強のときにマンガに逃げ込むように、何をしたいのかとぼーっと考えてしまう。
こころに浮かぶことは断片的で、非現実的というか、自分でも本当にやりたいのかと疑うようなこと。やってはみたいが、やれる能力があるのか、それで生活はなりたつのかと疑問がついてまわるようなこと。

声を褒められたことがある。録音で聞く自分の声ほど嫌なものはないのに、それを褒められた。カラオケが好きで歌声も独特だと言われた。自分の声を活かしたい、そう思った。ボイストレーニングをしてみたい、朗読もいいな・・・しかし、だから何?アナウンサー?歌手?役者?ぜんぜん違う。そこで思考はストップ。自分の声の何を、どこを褒められたのかもわかっていないから展開もしない。

紀行文を書いて生活できないか、とも思った。そんなに旅行好きというわけでもないが、自分の旅先での体験を書き連ねてみたいと思った。しかし、そんな筆力があるのか、他の人にない着想やセンスがあるのか。ない。なのになぜそんなことを夢想するのか。ふと思い当たった。高校生のときに夢中になって読んだ小田実の『何でも見てやろう』。ああ、これね。大学生のときに今はなきユーゴスラビアを旅行したが、それもこの影響だったのかと気がついた。そして、再びそこで思考はストップ。

勉強したいこと、単純に経験したいことは結構出てくる。英語を勉強したい、使えるようになりたい。中国語や韓国語も学びたい。他の国で、長期ではなくとも暮らしてみたい。楽器もなにかひけるようになりたい。芝居もやってみたい。蓄財も、将来に備えて学んでおきたい。いや実際に蓄財できなければ意味がない。株でもやってみるか。昔、賃貸マンション投資をしてバブル崩壊で失敗しているから金儲けのセンスや運はないけれど、少しずつ気長にやれば。

ふと気づく。あれ、仕事を何がしたいのかじゃなかったのか、、。そう、仕事がでてこない。株で大儲けしたら何もせず遊んで暮らせる、それもいいか、、そうしたいか、なりたいか、う〜ん。儲けてもいないうちから考える。そうなりたいような、それではつまらないような。
突然思考は飛んで、続けられる仕事は何かを考え始める。「したいか?」だと答えがでない。「いやじゃなくて続けられるか?」なら何か出てくるかもしれない、、う〜ん、、職人?何の?わからない。なりたいスタイルは浮かぶけどしたいコンテンツは浮かばない。

さらに現実に近づく。今の仕事に関連して続けられそうな仕事はないか。今の仕事がまったく嫌なわけではないのだから、延長線上で思いつく仕事もある。研修講師?カウンセラー?コンサルタント?
実は、結局こうして考えたのに近い仕事をその後やることになるのだが、その当時、こうやって妄想、夢想していたときにはあまり現実的には考えていなかった。続けられるかもしれないが、そんなにやりたいわけでもないな、と。

こんなことを何度も何度も繰り返していた。ある種の頭の中のキャリアドリフト、あるいはキャリアマイニング(こんな言葉があるか知らない。造語)。当然、休日出勤は極めて非効率的なものだった。