共感ということ、だろうか

軍事の時代か

今年ももうすぐ終わる。
2月のロシアによるウクライナへの軍事侵攻。
これで頭をぶん殴られたように今年が始まった。動揺した。こんな戦争がこの時代に起きるのか。いてもたってもいられない気持ちになった。何かしないとと苛立った。ただの一市民でしかないのに。でも同じように思った人も多かったんじゃないかと思う。

侵攻の一週間後、ロシア大使館に抗議の手紙を送った。匿名で。ロシア、いやクレムリンは怖いと思った。足がつかないように、などと思いながら投函した。
ウクライナを侵略して占領・所有しようなどと考えているのはプーチンだけだと思っていた。怒りにかられた。ただの一市民でしかないのに。自分だけの勝手な妄想やイデオロギーでプーチンが始めた戦争で、プーチンがいなくなれば戦争は終わると浅はかにも思った。

to Russian Ambassador and Russian People

I don’t believe Russian People as a nation want to invade and rule Ukraine.
Only Putin wants to do so.
If Putin disappear, this war or tragedy will soon be over.
Your country will be more peaceful and flourished.
Russian troops,
point your gun at Putin, not at Ukraine.

a Japanese citizen

その後、ロシアでのプーチンの支持率が8割を超えていると知って愕然とした。
情報統制下の社会だからか。かつての軍事国家日本と同じなのか。しかし、日本人もその軍事国家を自ら生み出し支えた。ロシアのことはほとんど何も知らない。その風土も、歴史も、人々の精神世界も。内部から変化することはあるのだろうか。あるとしたらどんな状況で、どんな思想でか。

どんな背景があるにしろ、軍事的な力で他国を奪うということは許されないと思う。しかし、背景を正しく理解して適切な手を国際社会が打たなければ同じようなことが繰り返される気がする。あちこちで繰り返される気がする。そして、そのうちに絶対だと思っていた価値観がしだいに相対化されはしないか、そんな恐れも感じる。
相手を知らなければ適切な対処はできないと思う。しかし、相手を知ることは自分の基準を相対化することにつながる。そのときにそれでも保持される共通の基準はあるのか、生まれるのか。すべてが相対化されたとしたら、その世界を統べるものは暴力的な力ということになりはしないか。

北朝鮮や中国の動きを念頭に日本も軍事力(名前は防衛力だが)強化に動く。軍備拡張競争が軍事的、外交的対立を先鋭化させるとわかっていても、止められない。日本の反撃能力確保に反対する気持ちにはなれなくなっている。大きな不気味な歯車がギシギシと回り始めた気がするが、身動きとれない。そんな自分に戸惑う。
結局、ウクライナについてもUNHCRやAARへの寄付、ウクライナ支援のイベント参加といったことしかできないでいる。

ひとごとじゃない、という気持ち

私は「戦争を知らない子供たち」の一人だ。しかし、生きているうちに自分の目の前で戦争を見るかもしれない、その場にいるかもしれないという気持ちがどこかにある。自分の子どもが戦争に巻き込まれることへの恐怖心がゼロではない。ひとごとではない、という気持ちになる。

これは戦争だけについてではない。災害や事故、事件の当事者になることがひとごとではない気持ちがある。こんな気持になったのは東日本大震災のときからだ。
阪神淡路大震災のときは会社の中で社員の被災を心配したり、対応に動くということはあったが、それは支援するという気持ちで、自分がそこにいても不思議ではないという気持ちではなかったと思う。その後の災害についても同じ感覚だった。ところが東日本大震災は違った。本当にひとごとじゃないと、いつ自分がその立場になってもおかしくないと、頭というより身体でそう思った。初めてボランティアに行った。コロナが落ち着いたら福島から岩手まで海岸沿いに訪ねてみたいとも思っている。

この気持は辛い気持ちだけれども、自分が救われる気持ちでもあるかもしれない。共感ということだろうか。