勉強がキャリアの中心軸ではだめですか?

大学院・・・受験勉強がこんなに楽しいなんて

大学院を受験する。そう決めてから周りの景色が一変した。どんどん自分で道を作っていった。かみさんに相談して、子どもの卒業で浮いた学費を回してもらうことにした(本来老後資金となる金だった)。仕事先に相談して、契約は継続しつつ仕事量を調整してもらった。大学院経験者に院での学びや受験の準備方法を聞いた。大学院の説明会や、予備校(大学院受験にもあると知ってびっくり!)もあちこち訪ねて受験イメージを固めた。こんなに段取り好きだったか!?自分でも驚くほどだった。

もっと驚いたことがあった。受験勉強が楽しかったのだ。楽しくてしかたなかった。高度成長期の受験戦争をくぐり抜けてきた世代だ。お手の物といえばお手の物。単語帳を作って丸暗記するかのような勉強の仕方にも懐かしさを覚えた。学習目標を決め、予備校のテストで結果が出るとモチベーションが一層高まった。若いときからそんなふうに飼いならされてきたのかもしれない。しかし、やがて気づいた。
これは内発的なモチベーションだ。・・・自分は勉強好きなんだ。

大学院・・・人生の贅沢

仕事に対する気持ちも落ち着いてきて、かえって仕事は順調になった。こんな感じで両立できたらいいかもしれない、これが自分のスタイルになるかもしれない、そんな思いも湧いた。しかし、自分の気持が勉強に向かっていることのほうが確かだった。

大学院は心理系でも臨床心理を選んだ。別にメンタルヘルスをやりたいわけではなかったが、少しでも実践的なものを学びたかった。当初は研修などの仕事の武器にしたいという気持ちだったのだが、これも次第に正体がわかってきた。実は自分に興味があるのだ。
自分は何者か。変われるのか。変わりたいのか。変わるとはどういうことか。60歳以降の人生をどのような人として生きていきたいのか。そして、その自分のコアが見つかったらそれを活かして人の役にたちたい。それはどんなものか。

今から思うとやりたかった分野はキャリア心理学やカウンセリング心理学だったのだろう。修論は指導教官の「好きなことをやったら」の一言で、定年前後のサラリーマンの意識を探ることにした。同年代は何を感じ、考え、どう対処しようとしているのか。論文は臨床テーマでなければいけないと思っていたから気が楽になり、モチベーションもあがった。もっとも、臨床心理学で人の精神(と呼ばれるようなもの)に目を向けることができたこともよかった。

そしてなにより、学ぶことがやっぱり楽しかった。授業を受ける、先生に質問する、疑問が晴れる、考えていることがクリアになっていく、ディスカッションする、気づいて深まるetc.etc. 自分の子どもより若い人たち、今まで接点がなかったような社会人、いろいろな人と交流する、飲んで歌うetc.etc. 大学生に戻ったような感覚だった。こんな贅沢はないと思った。かみさんに感謝した。

生産と消費・・・消費型人生の社会的価値

自分探しというテーマを背景に楽しい学びの時間にどっぷりとつかりながら、ひとつのことが気になっていた。それは人生とかキャリアの中での、生産と消費という問題。
アウトプットすることが嫌いではない。働くことが嫌なのでもない。だがインプットのほうが好きなのだ。なぜか。きっと自分にとってインプットが広い意味の遊びだからだ。
働かないで遊んでいたいという気持ちも正直にある。ただ、ずっと遊んでいたいのか、ずっとインプットしていたいのか、それでいいのか、それだけで満足できるのか、そう問いかける自分もいて、YESとは言い難い。

学習(社会的には教育)活動は経済学的には投資ではなく消費とされる。しかし、GDP(生産)=消費+投資+α だから消費には生産を支える柱という面がある。消費の何が悪い。しかも、40年近く必死に生産機能をはたしてきたのだ。残りの人生を消費中心にしてバランスさせるということでいいじゃないか。そういう考えも当然ある。リタイアした多くの年金生活者はそうだろう。消費中心の生活で満足を得ていく(左うちわで遊んで暮らせるほどでなくても、日々の生活を楽しんだり、ときどき非日常の体験にお金を使ったりして)。
しかし、自分はそういう人生では満足できない面がある。そういう人生に後ろめたさもある。仮に見かけは同じようであっても、違うといえるものを探している。社会・経済的には消費中心の生活でありながら、それが社会的に価値をもつ生活(経済面で結果的に生産を支えているということではなくて)を探している。だんだんそう思うようになった。

学習することが自分の喜びに直結しているとわかる中で、他にも自分がシンクロしていく方向性がぼんやり見えてきた。J.ホランドのパーソナリティ・タイプ論(RIASEC)でいえばA:芸術的、S:社会的、I:研究的が混じり合う方向、E.シャインのキャリア・アンカー・カテゴリーでいえばLS:生活様式、SV:奉仕・社会貢献、TF:専門・職能、AU:自律・独立がバランスする方向(中でもLSの統合的なあり方)だ。
どちらの理論も各タイプやカテゴリーに対応する職務・働き方を前提にし、(初期キャリアやミッドキャリアにおける)職務とのマッチングの観点でそれらの概念に言及している。しかし、私がRIASECやキャリア・アンカーで自分の方向性としてとりあげたのは職務適性ではなく、そこにある生き方の方向性だ(※)。それが統合されて、ぼんやりとだが自分という存在が描ける気がした。そして、そこでも気になったのは、そのようして描ける自分の志向性はやはり社会の中で生産する側より消費にする側に偏る生き方につながるだろうということだった。

しかし、なぜそんなに消費中心の生活を否定的に意識してしまうのだろうか。生産の舞台から離れる寂しさ、社会の当事者でなくなるような気持ち。そんなものも確かにある。ただ、それは後輩へのバトンタッチ、後進の指導や育成というキャリアの展開と考えれば収まる気持ちではないか。E.エリクソンが区分けしたGenerativityに第二段階を設けるようなものだ。それが嫌なら現役にこだわればいい。
それよりも、消費中心の生活に罪悪感さえ感じる自分がいることのほうがやっかいだ。後ろめたさを感じるというやつだ。その罪悪感から逃れるために働く(働かされる)ことになりかねない。なぜそこまで思うのだろう。
生産(Generativity)段階の時期に「やりきった」感がないからかもしれない、と自責的に思うところもある。しかし、本質は違うと思う。それは、きっと今までの人生が生産に価値を置く人生だったからだろう。生産量と生産性、成果を上げることが社会的に最も高い価値をもつ時代に育ってきたからだろう。その世の中の価値観から離れられないのだ。働くことは嫌じゃないし、勤勉は美徳だと思う。しかし、こういう生産至上主義的な経済オンリーの価値観には縛られたくない(生産すること、成果を上げることの中にいろいろな喜びがあるにしても)。

決着はついていない。しかし、少し落ち着いた

大学院修了時にこれからの生き方の柱にしようと決めたことがある。いえばあたりまえ、何の変哲もない5項目だが、ごく自然に自分のことばとして浮かんできた。
1.(死ぬまでは)健康に生きる
2.(自分や妻の兄妹もふくめて)家族を大切にする
3.(年金で足らなければ仕事や利殖などで)経済的に自立する
4.(どんな小さいことでもいいので)人のお役にたつことをする
5.(あとは)好きなことをする
こんなことをこころに決め、スッキリした気持ちで大学院を修了した。

その後いろんなことが、自分にとって意味のあるものとして起きた。
仕事をカウンセリング方向に変え、学習範囲が格段に広がり、新しい人との出会いや交流があり、メンタルクリニックで大変な失敗をしでかし、逆にカウンセリングの手応えも感じ、それまで趣味でやっていた絵に自分を表現できると感じるようになり、娘の楽器を借りて演奏を習い始め、もっと多くの表現手段を身につけたいと思うようになり、高齢の母親のことで郷里の妹たちとのコミュニケーションが格段に増え、妹家族の相談も増え、実家への帰省が頻繁になり、中学・高校時代の同級生との交流が再開し、、、

大学院で考えたことと合わせて、こうしたイベントが自分の生き方イメージの周囲を回るように重なり、自分のありたい姿がすこしずつ言葉になってきている。
「学ぶこと、探求して身につけたことを軸にし、それを自分を表現する方向で使う。働いて社会と接点をもつというより、広い意味で自分を表現することや自分自身の生き方そのもので社会と接点を持ちたい。アウトプットよりインプットが好きな自分が、インプットしたことやインプットすることそのもので人とつながっていたい。そういう生き方をしたい。」
もっとも、まだ方向性やイメージの段階だし、抽象的で我ながら意味不明な点もある。それがどう具体的な形になるのか、自分の生き方に決着がついたわけではない。決着をつけるべく、あるいはもっと明確に見えてくるように、生き切ろうと思っているだけだ。しかし、こころは少し落ち着いている。

こうしたマインドセットを得られたのも大学院の受験と学びという経験があったからだと思う。修論で同年代の人の話を聴いて視野が広がったこと、シニアキャリアに対する自分なりの視点が持てたことも大きい(※※)。そして何より、修論や臨床系の資格取得をふくめ大学院を存分に楽しみ、やりきったという経験が人生のピボットになったと思う。

(※)RIASECやキャリア・アンカーはキャリア形成の只中にいる人にとって自己理解の参考になるが、すでに職業選択をしたあととか、組織の中で一定の役割・ポジションにいるとか、バイアスのかかりやすい状況下での回答になることも多い。結果に違和感や複雑な感情を抱くこともあるはずだ。私のようにシニアの生き方の方向を探るきっかけとして使う方法は悪くないと思う。ある書籍によれば、M.サビカスのキャリア構成インタビューでアメリカではRIASECが使われるとか(アメリカではポピュラーなので)。具体的な使用場面は不明だが、キャリアのストーリーを紡ぐきっかけに使えるだろうと思う。

(※※)ちょうど大学院を終了した年に、楠木新さんの『定年後』が出た。似た視点があると感じて面白かったし、取材対象が多く勉強になった。ちなみに著者とは同い年だ。その頃に比べて、今は定年関連書籍があふれるように出版されている。