安倍元首相が死んだ
安倍元首相が手製の拳銃で撃たれ亡くなった。戦後の混乱期ではあるまいに今の時代の日本でこんなテロが現実とは・・・衝撃を受けた。
言論の暴力による封殺、民主主義への挑戦といった言葉が直後のメディアにあふれた。
犯人の動機は別のところにあるようで個人的なものらしい。だから、そうした論調に当初は違和感を感じたが、よく考えてみるとたしかに民主主義を危険にさらす脅威だといえる。
自分の意見を公の場で広く表明しているまさにそのときに、白昼、公衆の面前で殺される。それが誰にでも起こりうると感じられたとき、それは恐怖として伝播し、人の口を閉じさせるだろう。
誰でも手製で拳銃が作れ、人を殺せる。その事実。テロが別の世界のことでなく、日本の日常も隣り合わせになっているということか。そういう時代になってしまったということか。
67歳での死
安倍元首相は67歳で亡くなった。1954年生まれ。誕生日の違いで私は68歳だが同じ年の生まれだ。父親の安倍晋太郎氏も67歳で亡くなっている。晋太郎氏はガンによる病死だった。私の父親も68歳でガンで亡くなった。
安倍元首相は体調の問題もあってその座を退いたが、まだまだ政治家としてやりたいこと、やるべきと思っていたことがあったはずだ。それを考えると若すぎる逝去だと感じられる。総理戦に一度は敗れた晋太郎氏も道半ばという思いだっただろう。
自分の父親がガンと知らされ、闘病わずか半年で亡くなったとき、私も「早すぎる」と思った。しかし、死後に思い返してみると、父は病室で「好きに生きたでもう死んでもええんや」とつぶやいたことがあった。告知はできずじまいだったのだが、死期をさとってそう自分に言い聞かせたのだろうか。あるいは、息子の私にそう伝え、何かをわかってほしかったのだろうか。
父親の死の意味
安倍元首相はどんな思いで父晋太郎氏の死を見つめたのだろう。すでに父親の秘書となっていて、父方、母方両方の政治家閨閥に生まれ、父の跡を継ぐことは自明だっただろう。ただそれが早まっただけということだったかもしれない。でも、父親の果たせなかった夢を自分が実現する弔い合戦のような気持ちだったのではないか。さらに、多分、孫として小さい時から可愛がってもらったであろう祖父の岸信介という存在にまで届き、超えたいという思いもあったかもしれない。
そんな安倍氏と比べるつもりなどないが、自分は父親の死で何を思っただろうか。
正直なところ、父親にはずっと距離を感じてきた。子どものときから。オイディプスコンプレックスはなかったが、自分の中の超自我にはなっていた。その重しから逃げたいという気持ち、とにかく家を出たいという気持ちで大学に進学した。
結婚し、子どもも生まれて、家庭をもつようになってから父親の見方が少し変わってはきた。離れて客観的に見れるようになったのか、つながりを回復するような気持ちにもなった。けれど、距離がぐっと縮まったわけではなかった。そんな父親が突然のガン。混乱した。混乱したままに亡くなってしまった。悲しい気持ちはあったが、冷めた気持ちというか、悲しさに浸れない複雑な気持ちがあったように思う。
残される母親のこと、祖母のこと、家のこと、地元にいる二人の妹のこと、父親がやっていた小さな商売のこと、、、同時に、自分が仕事で行き詰まっていること、自分の家族のこと、、考えることがだだんだん自分のことになってきて、セルフィッシュな自分に後ろめたいような気持ちにもなった。
ただ、そんな中、何かを引き継いだという気持ちもあったと思う。明確なものではないが、バトンを受けたような。それまで、面倒くさいとしか思わなかった田舎の墓のことも考えるようになっていた。自分の子どもを残すということはこういうことなのかもしれない。
父親がつぶやいた「もう死んでもええんや」という言葉は、息子としての自分がいたから言えたのではないかとも思う。自分自身も、もしいま死の宣告を受けたとすると「早すぎる、もっと生きたい」という気持ちと同時に、子どもに「あとは頼む」と言って死を受け入れる気持ちになるのではないだろうか。ま、そうなってみないとわからないが。じたばたするだろうが。
人生の逆算
そして、もう一つ。そのころからなんとなく頭にあったことだが、父親の死をきっかけにはっきりと意識し始めたことがある。
それは「あと何年生きるのだろう」「死ぬまでの人生をどう生きるのだろう」と人生の逆算を始めたことだ。当時40歳。ユングのいう人生の正午。まさに、人生という一日の後半に入るという意識だった。今思うと、中年期の心理的危機のとば口に立っていた。その時から今68歳になるまで、潜在的にではあるが、結局同じことを意識し、考え続けてきたような気がする。