ロンドンに行ってきた〜妻との協働〜

ウェストミンスター寺院の中庭から望む国会議事堂
ウェストミンスター寺院の中庭から望む国会議事堂(水彩)

日記といいつつ・・・大きなウンチ

日記を書くということで始めたのに、長々と過去のことを書き連ねてしまった。時間にすると30年くらいのキャリアにまつわるこころの動き。言葉にしておきたかったのだ。形になるのを求めて溜まっていたものを言葉にして外に出したのだと思う。
大きなウンチをしたような気分だ。まだ出きっていないというか、決着がついていない不明なものも残っているが、ひとまずスッキリした。小さなこどもが「ウンチでた〜」と喜ぶような感じだ。産み落とし感もある。スッキリしてまた元気に走り回れる感じだ。日常のことを書いていこうという気持ちにようやくなれた。

妻と二人の旅行って

先月、コロナ感染第7波のさなかに妻とロンドンへ行ってきた。10日間。娘が勤め先の長期出張命令で一年間のロンドン勤務になっていたので、帰ってくる前に訪ねていこうかというのがきっかけだった。2〜3ヶ月前に決めたのだが第7波がどんどん酷くなり、本当に行くのか二転三転。しかし、妻の昔の友人にも現地で会えることとなり、こういう機会もそうないと決行した。

もう一つ別の思いもあった。妻との共同作業機会をつくることだった。コロナ禍の中での20年ぶりの海外旅行、しかも自分たちで手配・準備するのは初めて。政府の水際対策のおかげで出発前も帰国前もかかる手間は半端ない。妻は心配性なところがあるから共同作業のハードルは高くなるのは見えていたが、一緒に越えてみようという思いだった。

それにしても妻と二人だけの旅行である。
そもそも我が家は家族旅行自体多くなかった。子どもを二人連れてそれぞれの実家に帰省するくらい。20年前にひょんなことから家族で初めての海外旅行をしたが(それがインドだったというのも笑えるが)、それもパックツアー。旅行を楽しむという時間の使い方はそんなに馴染みのあるものではなかった。それを妻としようというのだ。

実はその二人だけの旅行を、妻が定年を迎えたときに一度した。新婚旅行以来35年ぶりだった。ほとんど初めての二人旅行のようなものだ。「旅行してみないか」と提案するのも勇気がいった。「何なの突然?どうしたの?」といぶかしがられそうな気がした。行き先は故郷に近い観光地にした。少しでも馴染みがある方が言いやすかったからである。

妻は定年後は非常勤となり出勤が減る。自分は大学院進学で仕事をセーブする。子どもは仕事や遊びでほとんど家にいない。そのうち家を出る。つまり、二人だけで顔を合わせる時間が圧倒的に増えるのだ。それは逃れられない現実だった。濡れ落ち葉だの粗大ごみだの定年後の夫を揶揄することばがある。自分は好きなことをすればそうはならないだろうと思っていたが、夫婦ふたりだけの時間には正直言って「恐怖」があった。何を話せばいい?何をすればいい?
子どもがいる間は家の中は子ども中心に回っていて、妻と子ども三人の会話世界に少し離れて(だいぶ離れて?ズレて?)自分がいるという構図だった。サラリーマン時代は午前様もいつものこと。それが日常だった。その日常が様変わりするのだ。恐怖でなくて何であろう。

この現実に適応しなければならない。これを乗り越える一手がいる。だんだんそう思うようになった。そこで、妻の「定年慰労」を名目に二人旅行を提案したのだ。自分に対して荒療治をするような気分だった。電車の中での時間、宿での時間。不安だった。しかし、突然会話が増えるわけではないものの、旅行先なのでそれなりに話題は見つかる。結果、無事に旅行を終え、妻に「楽しかった」と言わしめた。これで気分がぐっと楽になった。

今回のロンドン旅行はその第二弾。一回経験しているから二人で旅行することそのものに不安はない。今回はどちらかといえば準備の作業を共同ですることに主眼を置いた。バージョンアップだ。加えて、定年後に職業というキャリアの柱を失い、病気もして、やや気分が不安定になりがちだった妻のリハビリ的なものになればという思いもあった。準備作業はそれこそ気分的に浮いたり沈んだりだったが、なんとか出発にこぎつけた。

スマホは偉大だ

ロンドンは新鮮だった。
残念ながら英語はあまりわからず、特に食事の注文には苦労した。何を注文するにも、あれはどうする?これはどっちにする?といちいち聞かれて閉口した。このことを妻の友人のご主人(英国人)に話すと、「日本では逆に何でもセットになっていて、注文の自由がないね」と言われた。なるほど。所変わればである。

支払いは何でもコンタクトレス(タッチ決済)のカード。これは便利だった。帰国後のカード請求額は心配になったが(円安進行中だったし)、確かに便利。日本もどんどんキャッシュレスになっていくのだろう。

中近東出身と思われるアラブ系の人が多いのも意外だった。滞在していた場所がとくにそういうエリアだったようだが、それにしても多かった。
海外旅行者が多いせいもあって、いろんな国の言葉が溢れている。風貌もいろいろ。そんな中にいるから日本人であるこちら側に違和感はない。しかし、アジア系、特に日本人と思われる人は少なく感じ、そういう人にすれ違うと逆に気になってしまった。自分たちはどう見られるのだろうなどと考えてしまった。ダイバーシティには程遠い自分がいる。

そして、一番驚いたこと。それはスマホの威力。
ある時、妻と「あんまり外国にいるというストレスがないよね」と会話した。娘のアパートで寝泊まりしたというのが最大の理由だが、もう一つあった。それがスマホだ。
娘と一緒といっても向こうは仕事だから、夜たまに会う程度。ずっと妻と出歩いていた。そのときに活躍したのがスマホのマップアプリだ。Citymapperという。Google Mapも使えた。行き先を入力すれば道順はもちろん、バスや地下鉄の駅、次のバスが今どこであと何分で来るかも表示される。地図とこれで移動は楽ちん。レストラン探しにも役立った。これでストレスフリーとまでは言わないものの、かなりのストレス減になったと思う。

スマホの翻訳アプリもかなりのものだと発見。一緒になった日本人カップルがメニューをカメラで撮って翻訳していた。我々も使ってみたが、魚の名前はカタカナのままで残念ながらわからなかった(笑)。でも、これもどんどん進化するのは間違いないだろう。

ロンドン:ウォータールー橋から観るテムズ川:ハンガーフォード橋、ビッグ・ベン、国会議事堂
ウォータールー橋から観るテムズ川(鉛筆)

勉強がキャリアの中心軸ではだめですか?

大学院・・・受験勉強がこんなに楽しいなんて

大学院を受験する。そう決めてから周りの景色が一変した。どんどん自分で道を作っていった。かみさんに相談して、子どもの卒業で浮いた学費を回してもらうことにした(本来老後資金となる金だった)。仕事先に相談して、契約は継続しつつ仕事量を調整してもらった。大学院経験者に院での学びや受験の準備方法を聞いた。大学院の説明会や、予備校(大学院受験にもあると知ってびっくり!)もあちこち訪ねて受験イメージを固めた。こんなに段取り好きだったか!?自分でも驚くほどだった。

もっと驚いたことがあった。受験勉強が楽しかったのだ。楽しくてしかたなかった。高度成長期の受験戦争をくぐり抜けてきた世代だ。お手の物といえばお手の物。単語帳を作って丸暗記するかのような勉強の仕方にも懐かしさを覚えた。学習目標を決め、予備校のテストで結果が出るとモチベーションが一層高まった。若いときからそんなふうに飼いならされてきたのかもしれない。しかし、やがて気づいた。
これは内発的なモチベーションだ。・・・自分は勉強好きなんだ。

大学院・・・人生の贅沢

仕事に対する気持ちも落ち着いてきて、かえって仕事は順調になった。こんな感じで両立できたらいいかもしれない、これが自分のスタイルになるかもしれない、そんな思いも湧いた。しかし、自分の気持が勉強に向かっていることのほうが確かだった。

大学院は心理系でも臨床心理を選んだ。別にメンタルヘルスをやりたいわけではなかったが、少しでも実践的なものを学びたかった。当初は研修などの仕事の武器にしたいという気持ちだったのだが、これも次第に正体がわかってきた。実は自分に興味があるのだ。
自分は何者か。変われるのか。変わりたいのか。変わるとはどういうことか。60歳以降の人生をどのような人として生きていきたいのか。そして、その自分のコアが見つかったらそれを活かして人の役にたちたい。それはどんなものか。

今から思うとやりたかった分野はキャリア心理学やカウンセリング心理学だったのだろう。修論は指導教官の「好きなことをやったら」の一言で、定年前後のサラリーマンの意識を探ることにした。同年代は何を感じ、考え、どう対処しようとしているのか。論文は臨床テーマでなければいけないと思っていたから気が楽になり、モチベーションもあがった。もっとも、臨床心理学で人の精神(と呼ばれるようなもの)に目を向けることができたこともよかった。

そしてなにより、学ぶことがやっぱり楽しかった。授業を受ける、先生に質問する、疑問が晴れる、考えていることがクリアになっていく、ディスカッションする、気づいて深まるetc.etc. 自分の子どもより若い人たち、今まで接点がなかったような社会人、いろいろな人と交流する、飲んで歌うetc.etc. 大学生に戻ったような感覚だった。こんな贅沢はないと思った。かみさんに感謝した。

生産と消費・・・消費型人生の社会的価値

自分探しというテーマを背景に楽しい学びの時間にどっぷりとつかりながら、ひとつのことが気になっていた。それは人生とかキャリアの中での、生産と消費という問題。
アウトプットすることが嫌いではない。働くことが嫌なのでもない。だがインプットのほうが好きなのだ。なぜか。きっと自分にとってインプットが広い意味の遊びだからだ。
働かないで遊んでいたいという気持ちも正直にある。ただ、ずっと遊んでいたいのか、ずっとインプットしていたいのか、それでいいのか、それだけで満足できるのか、そう問いかける自分もいて、YESとは言い難い。

学習(社会的には教育)活動は経済学的には投資ではなく消費とされる。しかし、GDP(生産)=消費+投資+α だから消費には生産を支える柱という面がある。消費の何が悪い。しかも、40年近く必死に生産機能をはたしてきたのだ。残りの人生を消費中心にしてバランスさせるということでいいじゃないか。そういう考えも当然ある。リタイアした多くの年金生活者はそうだろう。消費中心の生活で満足を得ていく(左うちわで遊んで暮らせるほどでなくても、日々の生活を楽しんだり、ときどき非日常の体験にお金を使ったりして)。
しかし、自分はそういう人生では満足できない面がある。そういう人生に後ろめたさもある。仮に見かけは同じようであっても、違うといえるものを探している。社会・経済的には消費中心の生活でありながら、それが社会的に価値をもつ生活(経済面で結果的に生産を支えているということではなくて)を探している。だんだんそう思うようになった。

学習することが自分の喜びに直結しているとわかる中で、他にも自分がシンクロしていく方向性がぼんやり見えてきた。J.ホランドのパーソナリティ・タイプ論(RIASEC)でいえばA:芸術的、S:社会的、I:研究的が混じり合う方向、E.シャインのキャリア・アンカー・カテゴリーでいえばLS:生活様式、SV:奉仕・社会貢献、TF:専門・職能、AU:自律・独立がバランスする方向(中でもLSの統合的なあり方)だ。
どちらの理論も各タイプやカテゴリーに対応する職務・働き方を前提にし、(初期キャリアやミッドキャリアにおける)職務とのマッチングの観点でそれらの概念に言及している。しかし、私がRIASECやキャリア・アンカーで自分の方向性としてとりあげたのは職務適性ではなく、そこにある生き方の方向性だ(※)。それが統合されて、ぼんやりとだが自分という存在が描ける気がした。そして、そこでも気になったのは、そのようして描ける自分の志向性はやはり社会の中で生産する側より消費にする側に偏る生き方につながるだろうということだった。

しかし、なぜそんなに消費中心の生活を否定的に意識してしまうのだろうか。生産の舞台から離れる寂しさ、社会の当事者でなくなるような気持ち。そんなものも確かにある。ただ、それは後輩へのバトンタッチ、後進の指導や育成というキャリアの展開と考えれば収まる気持ちではないか。E.エリクソンが区分けしたGenerativityに第二段階を設けるようなものだ。それが嫌なら現役にこだわればいい。
それよりも、消費中心の生活に罪悪感さえ感じる自分がいることのほうがやっかいだ。後ろめたさを感じるというやつだ。その罪悪感から逃れるために働く(働かされる)ことになりかねない。なぜそこまで思うのだろう。
生産(Generativity)段階の時期に「やりきった」感がないからかもしれない、と自責的に思うところもある。しかし、本質は違うと思う。それは、きっと今までの人生が生産に価値を置く人生だったからだろう。生産量と生産性、成果を上げることが社会的に最も高い価値をもつ時代に育ってきたからだろう。その世の中の価値観から離れられないのだ。働くことは嫌じゃないし、勤勉は美徳だと思う。しかし、こういう生産至上主義的な経済オンリーの価値観には縛られたくない(生産すること、成果を上げることの中にいろいろな喜びがあるにしても)。

決着はついていない。しかし、少し落ち着いた

大学院修了時にこれからの生き方の柱にしようと決めたことがある。いえばあたりまえ、何の変哲もない5項目だが、ごく自然に自分のことばとして浮かんできた。
1.(死ぬまでは)健康に生きる
2.(自分や妻の兄妹もふくめて)家族を大切にする
3.(年金で足らなければ仕事や利殖などで)経済的に自立する
4.(どんな小さいことでもいいので)人のお役にたつことをする
5.(あとは)好きなことをする
こんなことをこころに決め、スッキリした気持ちで大学院を修了した。

その後いろんなことが、自分にとって意味のあるものとして起きた。
仕事をカウンセリング方向に変え、学習範囲が格段に広がり、新しい人との出会いや交流があり、メンタルクリニックで大変な失敗をしでかし、逆にカウンセリングの手応えも感じ、それまで趣味でやっていた絵に自分を表現できると感じるようになり、娘の楽器を借りて演奏を習い始め、もっと多くの表現手段を身につけたいと思うようになり、高齢の母親のことで郷里の妹たちとのコミュニケーションが格段に増え、妹家族の相談も増え、実家への帰省が頻繁になり、中学・高校時代の同級生との交流が再開し、、、

大学院で考えたことと合わせて、こうしたイベントが自分の生き方イメージの周囲を回るように重なり、自分のありたい姿がすこしずつ言葉になってきている。
「学ぶこと、探求して身につけたことを軸にし、それを自分を表現する方向で使う。働いて社会と接点をもつというより、広い意味で自分を表現することや自分自身の生き方そのもので社会と接点を持ちたい。アウトプットよりインプットが好きな自分が、インプットしたことやインプットすることそのもので人とつながっていたい。そういう生き方をしたい。」
もっとも、まだ方向性やイメージの段階だし、抽象的で我ながら意味不明な点もある。それがどう具体的な形になるのか、自分の生き方に決着がついたわけではない。決着をつけるべく、あるいはもっと明確に見えてくるように、生き切ろうと思っているだけだ。しかし、こころは少し落ち着いている。

こうしたマインドセットを得られたのも大学院の受験と学びという経験があったからだと思う。修論で同年代の人の話を聴いて視野が広がったこと、シニアキャリアに対する自分なりの視点が持てたことも大きい(※※)。そして何より、修論や臨床系の資格取得をふくめ大学院を存分に楽しみ、やりきったという経験が人生のピボットになったと思う。

(※)RIASECやキャリア・アンカーはキャリア形成の只中にいる人にとって自己理解の参考になるが、すでに職業選択をしたあととか、組織の中で一定の役割・ポジションにいるとか、バイアスのかかりやすい状況下での回答になることも多い。結果に違和感や複雑な感情を抱くこともあるはずだ。私のようにシニアの生き方の方向を探るきっかけとして使う方法は悪くないと思う。ある書籍によれば、M.サビカスのキャリア構成インタビューでアメリカではRIASECが使われるとか(アメリカではポピュラーなので)。具体的な使用場面は不明だが、キャリアのストーリーを紡ぐきっかけに使えるだろうと思う。

(※※)ちょうど大学院を終了した年に、楠木新さんの『定年後』が出た。似た視点があると感じて面白かったし、取材対象が多く勉強になった。ちなみに著者とは同い年だ。その頃に比べて、今は定年関連書籍があふれるように出版されている。

大学院受験まで

自問自答では答えは出ない

「何をしたいのか」「何を仕事にしたいのか」、40代にサラリーマンをしながら何度も自問自答した。しかし、いつもこれだという答えは見つからないまま、当面、あるいは将来に備えてこんなことをやっておこうといった今年の抱負みたいなものを書き出しては終わっていた。その作業で少しは落ち着くものの、結局不全感を抱えたまま。また同じことを繰り返す。
当然だ。将来に考えを伸ばしてタイムラインのようなものを作っても、いつまでに何が必要だといった課題はバラバラ出てくるし、単発のウォンツは出てくるが「これをする」という軸がないから課題やウォンツはそのまま、統合されないのだ。

今思うと、こうした「自分は何をしたいのか」という問いに答えを(正解を)先回りして見つけようとしてもそれは違うのではないか。ましてや自問自答では無理だ。考えることは必要だが考えるだけでたどり着くものではないのだと思う。

体験したことや人との出会いで何かに気づく。しかも、それは答えではない。その気づきをなんとかしようという覚悟と行動があって少し手触りのある何かになっていく。その意味ではプランド・ハップンスタンス的だ。しかも、より意味のあるのは、到達した(と思う)何かよりもそういうプロセス自体だ。

今はそんなふうに思える。でも、その最中は模索、手探りでしかない。こころの浮き沈みがつきまとう。だから、暗中模索しながらもそれに耐えられる、いや、それを楽しめるプロセスに身を置くことが大切だ。
そう思えるようになったのは自分の場合は大学院を受験したことにあるようだ。

サラリーマンなりにもがいてみた

40歳を過ぎて、グループ会社に転籍した。以前からの同僚がその会社の社長になることが内定していて、一緒にやらないかと声をかけてもらったのだ。本社での自分の状況に行き詰まりを感じていたし、とてもありがたく思った。しかし、すぐには決断できなかった。興味のある事業分野だし、堅実な業績をあげている会社であるにも関わらず、迷った。給与が下がるとか、本社からの都落ち感とかそんなものではない(実際に条件面は問題なかった)。それは、本社にいればいろいろ他の可能性もあるのではないか(それを諦めることになる)、本社にいれば何かがあっても安心じゃないか(寄らば大樹の陰。そのリスクをとることになる)、そんな気持ちだった。

なんのことはない。やりたいことを見つけ、それが見えたら会社を辞めるくらいの気持ちでいたのに、実際に決断を迫られてあぶり出されたのは、なんでもやれるという可能性(幻想)に守られていたいという単純すぎるほど単純な現状維持欲求だった。
自分の場合、可能性があるというのはそういう環境にいる(と思っている)だけの話。実は可能性という言葉にかこつけて現状を保留しているだけなのだ。本当に可能性があるならチャレンジしているはずだし、実際には動き出せない自分に現実としての可能性(現実化していく可能性)はないのと同じ。そう気づいた。ならば、可能性という言葉にこのままでは意味はない。あたらしい会社で可能性を考えるほうが意味がある。

そう考えて転籍を決意した。
新しい会社の空気は新鮮だった。新卒で元の会社に就職したときの気持ちや、自由さを取り戻したような感覚だった。素直に会社や職場に溶け込み、仲間との信頼関係も深まっていった。いい感じだった。
しかし、6年、7年と時間が立つうちに、再び「仕事で自分を活かしきれない」という思いがもたげてきた。求められるレベルがどんどん上ってきた。とはいえ興味のある事業分野、馴染みのある仕事内容だ。できないはずはない。そう思って頑張ったが、違和感がつのる。自分が変われないことを感じた。殻を破れない。

退職、業務委託、しかしプロにはなりきれず

50歳を迎える年に退職した。子どもはまだ学生だったが、妻も仕事をしていたので、経済的には退職金や持ち株などをはたけばローンを返済してなんとかやっていけると思った。
サラリーマンを続ける意思はなかった。組織には恵まれてきたが、個人の自由を求めた。ただ、それまでの仲間との縁がすっぱり切れるのはできれば避けたかった。しがらみは嫌だと思う反面、人間関係志向も強かった。結果、その会社の業務委託者として仕事をすることになった。ただし、研修講師という特殊な仕事集団に属することになった。その企業の事業を支える仕事だ。これも興味のある分野だったし、適性も、対応できる能力もあると思った。

組織のサラリーマンとピンで仕事をするのは違う。つきつめると能力や適性の問題ではない。覚悟の問題だ。サラリーマンの中にもプロ意識の高い人はいるだろう。そういう人は独立もスムーズかもしれない。しかし、自分はどっぷりとサラリーマンだった。独立事業者として人前に立つようになってそのことを思い知った。プロ意識は弱かった。

仕事はなんとかこなしてはいたが足元はグラグラ。自分のやっていることに自信が持てなくなっていた。「やりたくない」そう思いはじめていた。しかし今はそう言えるが、そのときはそう正直に思えていなかった。自分にウソをつき目をそむけていた。「やりたくないわけじゃない。やれないのは自分が悪いのだ」「何かが足りないのだ」と。そのくせ「失敗する」と呆然と自分をながめてもいた。実際に失敗し、情けなさで仲間に涙を見せるほど落ち込み、意地でなんとか盛り返し、、そんなことを繰り返したが、自分をいつわっているような苦しさがずっと底にあった。またしても変われない自分がいた。徹底的に変われない。それまでの人生で一番痛感した。・・・今思うと、変わりたくないと何かに抵抗していたのかもしれないが。

模索した。前向きにいえば自分を仕事に向かわせる武器を持ちたいという考え、後ろ向きにいえば仕事とは別に自分を支えるものを持ちたいという逃げ。それを実現するための何かがないか、そんな考えが湧いてきて、漠然と何かをさがしはじめた。いろいろ手をだした。そして心理学に気持ちがとまった。放送大学の講座で勉強しはじめた。
当初は、心理学の学習を「今の仕事で自分を活かすキーにしたい」と考えていたが、次第にそれは建前だなと思うようになった。学びたいから学んでいる。そういう自分に気づいた。「仕事のため」という大義名分がなくなる後ろめたさが襲ってきた。しかし、行くところまで行ってみようという気持ちも大きくなった。勉強しながら自分探しをしたいと思うようになった。

そんな心理プロセスを経て、大学院受験を目指すことにした。60歳になる年だった。