(死ぬまでは)健康に生きる~癌のこと

父親の癌

今から29年前のある日、会社の内線電話が鳴り、私宛に故郷の市民病院からと交換手がつないでくれた。突然の電話で驚いた。私も面識のある、父親の知り合いの副院長だった。副院長は早口で「お父さんが食道癌で入院された。お母さんには癌のことは言ってない、あんたに伝えときます」と言った。頭が真っ白になった。その時電話で何を話したか、その先どう行動したか記憶がない。副院長に会いに実家に帰ったはずだがはっきりとした覚えがない。書店で癌の本を買いあさったことだけぼんやり記憶に残っている。

相談できない、頼れない

副院長から紹介された若い主治医ははっきりとは余命宣告をしなかった。しかし父親の社会的関係先が広いならそれなりに備えておいたほうがいいといったことをほのめかした。「丸山ワクチンとか希望があれば何でもやってもらって結構です」とも言う。慌てた。混乱した。もっと聞こうと思ったが、何をどう聞いていいかわからなかった。本を読み、会社の知人などに相談した。相談すると「僕の親戚もね」といった話をしてくれる人が結構いて、教えてもらった民間療法などもあたった。しかし、自分だけではどうしようもない。なぜ副院長は母親に言わなかったのか、大人しい母親の精神的影響を心配したのか、よくはわからないが「あんたに」と言われてしまって母親には言えず、故郷で暮らしている妹にだけ打ち明けた。

告知・・・できず

治療が辛くなること、それにどう父親が耐えてくれるか、それがまず心配だった。やはり、本人や母親にもに伝えて家族で支えることが必要だと思い、悩んだ末に副院長に父への告知を相談した。ところが副院長は、「ああ、インフォームドコンセントね。○○君、インフォームドコンセント。」と父の主治医に言いつつ、私に向かって「お父さん、神経質なところがあるからね。知らせてかえって死期が早まる人もいるんだよね」とつぶやく。
告知があたりまえの今とは違い医者にも戸惑いがあったのか。それとも冷静な判断だったのか。いずれにしても突き放された気がした。そして何よりも、医者の忙しさだ。主治医に病状を詳しく聞くとか治療の相談をしようにもなかなか時間を取れない。一生懸命時間を割こうとはしてくれるが、話の途中でも医師のPHSが鳴ったりして全く余裕がない。時間をとってもらうこちらが悪い気がしてくる。こんな状態で告知しても、はたして父親の不安や心配を受け止めてもらえるのか、次第にそういう疑問が湧いてきた。そして、結局、告知はできなかった。
父はうすうす察していたと思う。家族総出で毎日泊まり込むように看病したが、きちんと向き合って話すことはできずじまいだった。入院から半年で父は亡くなった。

妻の癌

7年前、妻に乳癌が見つかった。その年が明けて早々に、検診を受けていた病院の医師から電話。画像の影の形が気になる、と。検査の結果、癌と診断。すぐに手術となった。医師は手術前に、どんな手術になるか、癌の状態によってどこまで手術するか、癌の進行度や種類によってどんな治療になるか、それぞれ予後はどう想定されるかなど詳しく説明してくれた。初めて聞くことばかりで理解するのに必死だったが、きちんとデータも踏まえて明確に説明しようとする意志の態度に安心感があり、妻ともども先生にお任せしようという気持ちになった。
それにしても、癌の種類を検査し、様々なタイプごとに標準的な治療方法や投薬の種類が確立されているのには驚いた。父親の時とは全く違い、癌の医療が日進月歩なのを感じた。

転移!?

乳癌の治療は順調だった。分子標的薬が効くタイプの癌と診断されたので、投薬の副作用も少なく助かった。手術から3年、妻も私もなんとなくもう大丈夫という気になっていた。通院は続いていたが、癌のことは頭から離れていた。そんな時、妻が暗い顔で病院から帰ってきた。CT画像で肝臓に円形の影が見つかったと。転移の可能性があると。
再び医師から説明を受けた。転移癌の場合、どういう治療になるか、予後はどうか。過去の治療経験からどういう治療方法を勧めるか。このときも主治医は丁寧に,また我々が前向きな気持ちを保てるように気を配って説明してくれたが、心なしか表情が固く、厳しい状況になりそうだという雰囲気が伝わってきた。

奈落の底に突き落とされた…

この時はセカンドオピニオンも聞くことにした。そしてその病院では主治医の説明と同趣旨の話を聞いたが、加えて、「通常で7年~10年」とはっきりと余命の見通しを伝えられた。その瞬間空気が凍りついたようだった。受付で清算を待つ間、妻と言葉も交わせずただ手を握り合って座っていた。
このときのセカンドオピニオンは主治医と違って冷徹だったと思う。その後、乳癌の肝臓転移や配転移の癌は予後が厳しいという情報を本やネットで何度も目にした。妻は故郷の義兄に伝えるときに涙したらしい。しばらくして、あと10年と覚悟を決めたようだった。

妻を失う・・・とんでもない恐怖が襲ってきた。子どもが家を出て、妻と二人の生活になっていた。そんな生活が始まるときに自分が妻と二人だけでどう暮らせるか、これは大変だ、恐怖だなどと大げさに思ったりしていたが、そんな思いは吹き飛んだ。妻を、家族を失う苦しさに、どん底に落ちた。身が裂かれるようだった。そして、一人になること、自分と子どもたちだけが残されることを想像すると家庭がいかに妻を中心にして営まれていたかを思い知らされた。

思わぬ結果

主治医の考えで、生検は行わず抗がん剤治療に入り、癌が縮小ないし固定して増えていないと判断されたら切除することになった。針生検で癌細胞が飛び散ることがあること、また、転移癌であれば全身治療になるので手術は主要な選択肢ではないが、医師の経験で切除した方が予後がよかったケースがあることが理由だった。抗がん剤治療はやはり副作用がかなりあった。身体、体調、感染ケア、、、家事をやり、一緒にそばにいて体をさすってやることしかできなかった。

抗がん剤治療の期間が終わり癌の進行や増加がないことから予定通り摘出手術を行うことになった。乳癌手術のときは息子も一緒にいてくれたが、今回は一人で手術結果を待った。終了後医師は肝臓の摘出部位を示しながら、手術は無事に終わったこと、癌はCT画像では一か所しか見えなかったが実際は二か所にあったこと、それは予後にあまりよくない懸念があること、病理組織検査に出して今後の治療方針を検討することなどをその場で説明してくれた。

妻にも医師の話を伝えたが、癌が複数で予後の心配があることは言わなかった。言えなかった。そのとき言わなかったために、いつ、どのように、どこまで伝えるかという悩みを抱えた。検査に時間がかかったのか、医師からの連絡が一か月以上来ずモヤモヤした気持ちが続いた。父親の時ほどではないものの、病状を本人と共有できない辛さを再び感じた。結局いつ伝えたのかよく覚えていないが、癌が二つあったことだけは医師の話の前に伝えた。

ようやく医師からの説明の日が来た。どんな話になろうとしっかり妻を支えるんだという気持ちで臨んだ。結果は意外だった。摘出された組織は乳癌の肝臓転移癌ではなくて別物だった。しかも、癌ではなく類上皮血管内皮腫という極めてまれな腫瘍で、症例が少なく摘出手術以外の治療法もないという。ただ、悪性腫瘍ではあるが進行が遅いか、予後が長いケースも過去にはあったということで、医師としては乳癌の肝臓転移よりいい結果だったと伝えてくれた。治療法はないので、乳癌のホルモン治療を続けつつ、経過観察となった。

私はホッと気持ちが休まるのを感じた。自宅に帰ってネットで様々検索して医師の話を消化した。一方、妻には戸惑いがあった。素直に良かったとは思えていないようだった。確かに、何者かわからないものを体内に抱え込んだわけだし、治療という目標もない。一度余命への覚悟を決めたあとでこころの置き場がなくなったような感覚だったらしい。

肝臓の手術から4年近くなる。今のところ変化は見られず、落ち着いた日常に戻っている。
ただ、この間の癌との闘病は、仕事を定年で辞めたこととも重なり妻のメンタルに深いところで影響を残していると感じる。

(死ぬまでは)健康に生きたいが…

父親や妻のことがあったからか、癌と離れた人生はないような気がどこかでしている。

60歳以降のシニア人生を考えたときに「(死ぬまでは)健康に生きる」ということを自らの方針の一つとした。まあ、だれでもそう思う当たり前のことだが、長生きしたいということではない。自分で自分の体をまっとうしたいという気持ちだ。そういう気持ちで身体に意識を向け、バランスをとろうとし、適度に鍛えたりすることを心掛けている。
しかし、問題がある。酒だ。子どもの頃から父親とは違う自分をずっと意識してきたが、何のことはない。結構似ている。歯ぎしり、寝言、いびきはしっかり受け継いでいるし、特に酒の飲み方が同じだ。量も回数も多いが、外で飲んだ時のはしご酒がそっくりそのままだ。父親は煙草も吸っていたから食道癌リスクが余計大きかったと思うが、飲酒だけでも相当なリスクという。
自分の癌とのつきあいは酒とのつきあいに尽きるのだろう。