大学院受験まで

自問自答では答えは出ない

「何をしたいのか」「何を仕事にしたいのか」、40代にサラリーマンをしながら何度も自問自答した。しかし、いつもこれだという答えは見つからないまま、当面、あるいは将来に備えてこんなことをやっておこうといった今年の抱負みたいなものを書き出しては終わっていた。その作業で少しは落ち着くものの、結局不全感を抱えたまま。また同じことを繰り返す。
当然だ。将来に考えを伸ばしてタイムラインのようなものを作っても、いつまでに何が必要だといった課題はバラバラ出てくるし、単発のウォンツは出てくるが「これをする」という軸がないから課題やウォンツはそのまま、統合されないのだ。

今思うと、こうした「自分は何をしたいのか」という問いに答えを(正解を)先回りして見つけようとしてもそれは違うのではないか。ましてや自問自答では無理だ。考えることは必要だが考えるだけでたどり着くものではないのだと思う。

体験したことや人との出会いで何かに気づく。しかも、それは答えではない。その気づきをなんとかしようという覚悟と行動があって少し手触りのある何かになっていく。その意味ではプランド・ハップンスタンス的だ。しかも、より意味のあるのは、到達した(と思う)何かよりもそういうプロセス自体だ。

今はそんなふうに思える。でも、その最中は模索、手探りでしかない。こころの浮き沈みがつきまとう。だから、暗中模索しながらもそれに耐えられる、いや、それを楽しめるプロセスに身を置くことが大切だ。
そう思えるようになったのは自分の場合は大学院を受験したことにあるようだ。

サラリーマンなりにもがいてみた

40歳を過ぎて、グループ会社に転籍した。以前からの同僚がその会社の社長になることが内定していて、一緒にやらないかと声をかけてもらったのだ。本社での自分の状況に行き詰まりを感じていたし、とてもありがたく思った。しかし、すぐには決断できなかった。興味のある事業分野だし、堅実な業績をあげている会社であるにも関わらず、迷った。給与が下がるとか、本社からの都落ち感とかそんなものではない(実際に条件面は問題なかった)。それは、本社にいればいろいろ他の可能性もあるのではないか(それを諦めることになる)、本社にいれば何かがあっても安心じゃないか(寄らば大樹の陰。そのリスクをとることになる)、そんな気持ちだった。

なんのことはない。やりたいことを見つけ、それが見えたら会社を辞めるくらいの気持ちでいたのに、実際に決断を迫られてあぶり出されたのは、なんでもやれるという可能性(幻想)に守られていたいという単純すぎるほど単純な現状維持欲求だった。
自分の場合、可能性があるというのはそういう環境にいる(と思っている)だけの話。実は可能性という言葉にかこつけて現状を保留しているだけなのだ。本当に可能性があるならチャレンジしているはずだし、実際には動き出せない自分に現実としての可能性(現実化していく可能性)はないのと同じ。そう気づいた。ならば、可能性という言葉にこのままでは意味はない。あたらしい会社で可能性を考えるほうが意味がある。

そう考えて転籍を決意した。
新しい会社の空気は新鮮だった。新卒で元の会社に就職したときの気持ちや、自由さを取り戻したような感覚だった。素直に会社や職場に溶け込み、仲間との信頼関係も深まっていった。いい感じだった。
しかし、6年、7年と時間が立つうちに、再び「仕事で自分を活かしきれない」という思いがもたげてきた。求められるレベルがどんどん上ってきた。とはいえ興味のある事業分野、馴染みのある仕事内容だ。できないはずはない。そう思って頑張ったが、違和感がつのる。自分が変われないことを感じた。殻を破れない。

退職、業務委託、しかしプロにはなりきれず

50歳を迎える年に退職した。子どもはまだ学生だったが、妻も仕事をしていたので、経済的には退職金や持ち株などをはたけばローンを返済してなんとかやっていけると思った。
サラリーマンを続ける意思はなかった。組織には恵まれてきたが、個人の自由を求めた。ただ、それまでの仲間との縁がすっぱり切れるのはできれば避けたかった。しがらみは嫌だと思う反面、人間関係志向も強かった。結果、その会社の業務委託者として仕事をすることになった。ただし、研修講師という特殊な仕事集団に属することになった。その企業の事業を支える仕事だ。これも興味のある分野だったし、適性も、対応できる能力もあると思った。

組織のサラリーマンとピンで仕事をするのは違う。つきつめると能力や適性の問題ではない。覚悟の問題だ。サラリーマンの中にもプロ意識の高い人はいるだろう。そういう人は独立もスムーズかもしれない。しかし、自分はどっぷりとサラリーマンだった。独立事業者として人前に立つようになってそのことを思い知った。プロ意識は弱かった。

仕事はなんとかこなしてはいたが足元はグラグラ。自分のやっていることに自信が持てなくなっていた。「やりたくない」そう思いはじめていた。しかし今はそう言えるが、そのときはそう正直に思えていなかった。自分にウソをつき目をそむけていた。「やりたくないわけじゃない。やれないのは自分が悪いのだ」「何かが足りないのだ」と。そのくせ「失敗する」と呆然と自分をながめてもいた。実際に失敗し、情けなさで仲間に涙を見せるほど落ち込み、意地でなんとか盛り返し、、そんなことを繰り返したが、自分をいつわっているような苦しさがずっと底にあった。またしても変われない自分がいた。徹底的に変われない。それまでの人生で一番痛感した。・・・今思うと、変わりたくないと何かに抵抗していたのかもしれないが。

模索した。前向きにいえば自分を仕事に向かわせる武器を持ちたいという考え、後ろ向きにいえば仕事とは別に自分を支えるものを持ちたいという逃げ。それを実現するための何かがないか、そんな考えが湧いてきて、漠然と何かをさがしはじめた。いろいろ手をだした。そして心理学に気持ちがとまった。放送大学の講座で勉強しはじめた。
当初は、心理学の学習を「今の仕事で自分を活かすキーにしたい」と考えていたが、次第にそれは建前だなと思うようになった。学びたいから学んでいる。そういう自分に気づいた。「仕事のため」という大義名分がなくなる後ろめたさが襲ってきた。しかし、行くところまで行ってみようという気持ちも大きくなった。勉強しながら自分探しをしたいと思うようになった。

そんな心理プロセスを経て、大学院受験を目指すことにした。60歳になる年だった。